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暗黙の了解
「では、今後ともご活躍を期待していますよ。」
身なりのいい壮年の男がそう言うと、バーナビーは特上の微笑みを浮かべて一礼した。
「御社のますますのご発展をお祈りします。」
彼の仕草を目の端で見て、並び立つ相棒も大仰に頭を下げた。
「ども、ありがとうございましたぁ!!」
満足げなクライアントに、ロイズも揉み手で見送りに立つ。
「では、エレベーターホールまでお見送りいたします。ああ、君たちはここで。」
私もお見送りしたら帰るから、二人とももう帰っていいぞ。
上司のその言葉に虎徹は顔を上げ、内心ほっと息を吐いた。
やれやれ、やっと解放された。
だがバーナビーはまだ頭を下げたままだ。
ああ、まだ頭上げちゃだめなのか。
虎徹も慌てて倣い、もう一度頭を下げる。
やがてクライアントの男とロイズが完全に姿を消すと、虎徹はそろそろかと身構える。
ふらり
頭を上げようとしたバーナビーの姿勢が傾くより先に、虎徹が素早く腕を伸ばした。
「だぁから!いつも言ってんだろ!!眩暈するほど頭下げんなって!!」
「虎徹さんこそ、もうちょっと言葉づかい気を付けてくださいよ…。」
虎徹に寄りかかったまま、バーナビーは困ったように溜め息をついた。
今日のパーティの客はスポンサーの幹部連中ですよ。
それをいつもと大して変わらない話し方して…。
あいつらがへそ曲げて、契約打ち切りにでもなったら、
楓ちゃんが明日食うに困ることになるかもしれないって解ってます?
海千山千の財界人の接待で立つのも辛いほど疲れているくせに、
口だけは元気いっぱいだなと虎徹は苦笑した。
連中?あいつら?
なんとまあ、客がいなくなった途端、お言葉遣いの綺麗だこと。
しかも、それを棚に上げて人に言葉づかい云々って…。
虎徹は最近とみに素直になった相棒が、やっぱり本性は腹黒属性だったとつくづく思った。
さっきのおっさん連中、バニーに上手く煽てられてご機嫌だったけど…。
気付いてましたかー?この兎さん牙生えてますよー?肉食獣っすよー??
言えば俺が噛まれるから言わないけどさ。
虎が兎に食われたらシャレになんないっつの。
そんなことを虎徹がつらつらと考えてると、
バーナビーはもう顔を上げるのもだるいといった風情で言い放った。
「“二重人格”…いや“この腹黒ウサギ”?顔に出すぎですよ、オジサン。」
「お前なあ…。まあ、いいや。」
虎徹は痛いところを突かれ、それでも口を突きかけた文句を飲み込んだ。
疲れきった顔でもそれだけ憎まれ口を叩けるなら今日はまだ軽症だ。
けれどバーナビーがそれだけ疲弊しているのは、接待ベタな自分の分まで
フォローしてくれたからだと虎徹は承知している。
「バニー、ちょっと離れるぞ。立ってられるな?」
虎徹はバーナビーが黙って頷くのを目の端で確認すると慎重に身を離した。
客がいなくなってスタッフが慌ただしく片づけに走り回るホールを見まわし、
一番近くにあった椅子を引きずってきた。
「ほれ、お疲れさん。いつも悪いな。俺こういうのほんと駄目でさ。」
晩餐会が終わった途端、全精力を使い切ったように虚脱した相棒を座らせ、
虎徹はさっきまで絢爛豪華だったパーティ会場だった場所を指さした。
ゴールドステージに聳え立つ最高級ホテルのバンケットルーム。
アポロンメディア主催の毎年恒例スポンサー接待は、
今季絶好調のバディヒーローをホストにむかえ、かつてない賑わいを見せた。
不器用ながらも実直な虎徹と、社交界慣れした態度で物おじせずに各界の
重鎮ともいえる顧客の応対をこなしたバーナビーにクライアントたちは
今までになく満足して帰って行った。
虎徹が挨拶と相槌程度にしか会話していないのに比べ、
バーナビーは相手の会社の最近の業績からクライアント個人の趣味まで
頭に叩き込んでいたらしく、旧知の知人かと思うような会話で相手を上手く立てた。
おかげで、虎徹は多少気疲れしたものの余力十分に立っていられるというわけだ。
「虎徹さんがこういうの苦手なのは承知してます。ここは僕の守備範囲ですから。」
貴方が気に病むようなことじゃない。
暗にそう言うように、バーナビーは柔らかい笑みを浮かべた。
こういう表情を見ると、虎徹はつい思ってしまう。
“護ってやりたい”と。
バーナビーが過剰なまでに相手を立てる理由は分かっている。
老齢のクライアントたちにとって、自分のような人間は一番嫌いな人種だ。
以前バーナビーは帰りの車の中でそう言っていた。
才能、容姿、胆力、そして何より連中が失った若さ。
金と地位では買えないものに連中は畏怖と嫌悪を持っている。
ゆえに対応を間違えれば、連中は嫉妬と理不尽な怒りを自分のみならず、
会社や虎徹にまで向けるかもしれない。
だが、その“嫌いな人種”が頭を垂れ自分に傅けば、
それほど大きな快感を生むことも他にはそうそうあるまい。
そうやって向こうが気分よく手のひらで踊ってくれるのなら、
自分たちのヒーロー活動の経済基盤が盤石になるのなら、
愛想笑いも歯の浮くお世辞も安いものだ。
疲れた顔で嘲るように言い捨てたバーナビーに、虎徹は内心で嘆息していた。
それほどまでに、心を削り取られていることに気づいていないのかと。
偽悪的に振る舞えるのが彼の本性なら、そんなに疲弊はしないだろうにと。
全く…。
目的のために自分を傷だらけにしようとする生きぐせは何にも変わっちゃいない。
だったら、自分の役割はただ一つだと虎徹は心を決めた。
「バニーがそうまでして社のヒーロー事業を守ろうとするなら、俺はお前を守る。」
虎徹はハンドルを持って正面を見据えたままそう言ったので気付かなかった。
サイドシートのバーナビーの頬にうっすらと赤みが差したことに。
翡翠色の瞳の下が微かに潤んだことに。
何より、人の欲する全てを持っているかに見えたこの相棒には、
今まで守ってくれる人が誰もいなかったことにも。
虎徹がふと考えごとから我に返ると、会場は既に撤収作業が済んでいた。
そろそろ自分たちも撤収しなければ。
「んじゃ、今度は俺の守備範囲だな。バニー、キー貸せ。」
「いつも済みません。」
バーナビーが懐から車のキーを渡すと虎徹はそれをポケットにねじ込み、
バーナビーに手を差し出した。
「帰ろうぜ。お前はとりあえずロビーで座ってろ。俺は車を回してくるから。」
バーナビーは素直に彼の手をとり、鉛のように重い足に力を込め立ち上がった。
あーあ。
脚がこれじゃあ、今PDA鳴ったら僕は確実に役立たずだな。
しかたない、ポイントは虎徹さんに献上するか。
そんな自嘲に小さく鼻を鳴らしながら。
ロビーまで降りてくると虎徹はバーナビーをホールの目立たない場所に座らせ、
素早く車をエントランスに寄せに行った。
ドアマンに頼めば車寄せまで回してくれるだろうが、
バーナビーは他人が自分の車を扱うのが嫌いだった。
虎徹はそんな彼の愛車のハンドルを握ることを許された唯一の他人だ。
もっともそれ自体、つい最近の話だが。
数ヶ月前のパーティで政財界の重鎮の相手にさしものバーナビーも疲労困憊し、
任務終了した直後に重度の気疲れで動けなくなったのがきっかけだった。
「バニー、キー寄こせ。送ってやるから。こんな事で事故って死にたくねえだろ。」
虎徹は有無を言わせずバーナビーから車のキーを奪い取り、彼を助手席に押し込んだ。
壊し屋の異名を持つ彼は、意外にも車の運転は慎重だった。
「ボケっとしてたら一瞬で人殺せるからな。運転ってのは。」
伊達にお前より10年以上長く運転してねえよ。
初めて運転を任せた日、虎徹はそう言ってバーナビーを助手席で眠らせた。
車の走る緩やかな振動が心地いい眠りを誘うことを、バーナビーはその日初めて知った。
それからのことだ。
スポンサーの接待に駆り出される日は、バーナビーが接客を、虎徹が移動を
それぞれ受け持つようになったのは。
互いに口に出したわけではないが、それが二人にとって暗黙の了解になっていた。
<虎徹さん、遅いな…。>
バーナビーは入口の重厚な硝子戸をぼんやりと眺めた。
特に客が多い日だったのか、エントランスの車寄せにはひっきりなしに高級車が
入ってきてはドアマンに恭しく導かれた車の主を乗せて走り去っていく。
<これじゃ、駐車場から出るのに時間かかりそうだな…。>
バーナビーは頭に靄がかかるのを感じた。
<まずい…。寝そう…。>
いっそ立って待ってればよかったとバーナビーはぼんやりする頭で後悔した。
そもそも連日のオーバーワークで、脳神経のブレーカーがいつ落ちてもおかしくない。
眼鏡を外して目頭を押さえたり、両頬を軽く叩くがあまり効果はない。
仕事中昂ぶっていた交感神経系が遮断され、副交感神経が幅を利かせていく。
なんとか今一度、交感神経に起きてもらわねばとバーナビーは思案した。
<立って…ドアの外で待とう…。>
外気に当たれば少しはましだろう。
そう思って何とか立ち上がった時、ようやく外に見慣れた車が横付けされた。
ハザードランプを瞬かせたまま、虎徹が小走りで戻ってくる。
「悪い、車庫の出口が渋滞で遅くなっちまった。…大丈夫か?」
バーナビーの足元が覚束ないのを疲労から来る体調不良と誤解したのか、
虎徹の心配そうな声にバーナビーは焦点の合わない目で小さく呟いた。
「…眠い…。」
その答えに虎徹は一瞬の間の後、ぷっと吹き出した。
「わらわないでください・・・。」
抑揚のないその口調に、虎徹はハイハイと適当に答える。
「なんだったら運んでやろうか?お姫様だっこで。」
なんせ俺は二回分の借りがあるからなあ。そろそろ返済しとくのもいいよなあ。
そう言われてバーナビーの眼がごくごく僅かに睨むように眇められた。
「そんなの・・・かえさなくてけっこうです・・・。」
虎徹は笑いを噛み殺した顔で、寝落ち寸前の相棒の肩を抱き車へ戻った。
虎徹はバーナビーを後部座席のドアに凭れかけさせ、助手席のドアを開ける。
「ほら、まだ寝るなって。座ってシートベルト締めたら落ちていいから。頭打つなよ。」
完全に寝落ちカウントダウン中の相棒をシートに押し込み、
指でも挟んだりしないように彼の右腕を腹の上に乗せてからドアを閉めた。
「じゃ俺の守備範囲、任務開始ってことで。」
虎徹は運転席に座るとイグニッションキーを回した。
「お休みバニー。ゆっくり寝てな。」
虎徹はもう完全に夢の彼方へ旅立ってしまったバーナビーを見て少し笑うと、
ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
終
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