嵐の夜
「もう、早くしないとここから動けなくなりますよ。」
忙しなくアパートメントの荷物を片づけながらバーナビーは
室内をうろうろするだけの虎徹に言った。
「さっきから片付けてるの僕ばかりじゃないですか。」
腰に両手をあて、バーナビーは家主を軽く睨んだ。
「だってよ、何を非難させたらいいのか迷っちまうよ。」
虎徹はぶうと唇をとがらせ周囲を見回した。
友恵の写真だろ、レジェンドさん関係…。
あっちの本棚の本ももう売ってないし。
こっちの箱はデビュー当時の記事のスクラップ。
これ全部車に乗せるとか無理だよ。
でもどれか選んで後は諦めるってのもなあ…。
いつになく優柔不断な虎徹の物言いにバーナビーは溜め息をついた。
いつもは拙速すぎるほど決断が早いのに。
「だから特に逸失したら困るものだけ持ち出すんですよ。」
これ全部持ち出すなんて引っ越しとほぼ同義じゃないかと
バーナビーはあきれ顔を隠そうともしない。
窓の外で降りしきる雨の音がまた強くなった。
これ以上天候が悪くなったら上層に上がる道路が渋滞するか、
この辺り一帯が冠水して身動きが取れなくなる。
「幸い、ここにはロフトがあるんですから残りはそこにあげれば大丈夫ですよ。」
「そ、そうか。それもそうだな。」
バーナビーは周囲を見回してやれやれとまた溜め息をついた。
虎徹に荷づくりの主導権を渡すと本当に間に合わない。
「よし!持ち出すものは貴重品と友恵さん関係だけにしましょう。あと着替えと。」
レジェンド関係を持っていくとなると車の積載容量にも限界がある。
「僕がヒーロー関係を箱詰めしてロフトにあげますから、貴方は奥さん関係のを。」
くれぐれもアルバム見て動きを止めるとか勘弁してくださいよ?
バーナビーがそう采配すると虎徹は髭を掻き面目ねえと笑った。
「早くしないと家に辿りつけなくなる。急ぎましょう。」
虎徹はああと頷き、サイドボードの写真立てに手を伸ばした。
<僕だったら写真立てとロボットとうさぐるみ、あとピンズで完了だな。>
段ボールどころか紙袋一枚で事足りる自分の大事なもの。
そもそも想い出自体が欠けたり上書きされたりしているのだ。
自分には懐かしい過去がないことに思い至り、バーナビーはふと寂しさを感じた。
<虎徹さんって幸せだったんだな。>
迷って優先順位をつけられないほどたくさんの大事なもの。
もちろん辛い死別があったのは分かっているが、
それでも彼は充実した人生を生きてきたのだなとバーナビーは少し羨ましくなる。
<あと10年経った時に沢山あればいいじゃねえか…とか言いそうだな、あの人は。>
バーナビーは虎徹の背中を見てふっと笑い、
彼の大事なものを丁寧に箱詰めしていった。
「30年ぶりの超大型台風直撃なんて本当に来るのかねえ。」
虎徹は手持ちの中で一番大きなボストンバッグに
アルバムや写真立てを詰め込みながら窓の外に眼をやった。
シュテルンビルトはその構造上、災害に非常に弱い。
台風の大雨は下層に滝となって流れ落ち、
海抜の低いエリアは冠水や河川の氾濫の影響を受ける
もともと河の中州にあるこの街は水に特に弱い。
それのみならず、暴風は上層の車や様々なものを巻き上げ下層に叩きつける。
毎年何人かの人々がそういった飛来物の犠牲になっている。
市はシルバーステージのスタジアムに避難所を設けると発表したが、
ブロンズやダウンタウンの住民全てを収容するのは到底無理だ。
女性や子供、老人や障害者を優先的に入れるとされているが、
一部では更に『上層優先ではないか』とのデマも飛び交い
軽いパニックがすでに起きつつある。
虎徹はスマホで台風情報を確認しながらその規模の大きさに息を吐いた。
「出動要請も何回か来そうだな。」
「どういうわけかわざわざ外見に行く人いますよね…。」
バーナビーは野次馬で死ぬなんてありえないと首を振った。
「前の直撃の時はどう…って虎徹さんはまだオリエンタルタウンか。」
「でもあっちの方が台風当たりやすいからな。それなりに経験はあるぞ。」
「ああ、それでのんびりしてるんですね?」
「お前それ『経験あるならさっさと動けよ』って思ってるだろ。」
「凄い!虎徹さんジェイクみたいですね。」
「否定しろよ!!」
ああだこうだとじゃれあいながらも二人の荷づくりの手は止まらない。
何とか要請が掛かる前にバーナビーのマンションまで移動したい。
窓の外で聞こえた遠雷にバーナビーは急がなければと
荷物を両脇に抱えロフトに上がる階段に足をかけた。
「虎徹さん、レジェンドとヒーロー関係は避難完了です。」
バーナビーはロフトから身を乗り出してダイニングの虎徹に声をかけた。
「おう、こっちも終わった。さあ急いでバニーんちに行こう。」
バーナビーの家なら少なくとも冠水と上からの飛来物を気にする必要はない。
「お前んちに非難させてもらえて助かるわ。水も風もあそこなら平気だもんな。」
「言っときますけど、僕の家は停電には弱いですよ?」
バーナビーは釘を刺すように言った。
「エレベーターはもちろん、室内の自動ドアも玄関のロックもダウンしますから。」
もちろんあのクラスのマンションはある程度の自家発電装置を備えているから、
あくまで理屈上はの話だけどとバーナビーは思った。
「そうか…。そんなとこにお前が一人でいると思うのもいやだし、避難して正解かもな。」
虎徹はふいにそう言ってバーナビーの髪を撫でた。
「何言ってるんですか。僕は風雨にはトラウマありませんよ?」
「それでも好きな子のことは心配になるもんなの。」
炎ならともかく、嵐で怯えるようなかよわい女の子じゃあるまいしと思いつつ、
虎徹のそういった労りを心地よく思う自分にバーナビーは苦笑した。
「じゃあ行きましょう。忘れ物ないですよね。」
「うん、ないな。出発しよう。」
戸締りを確認すると虎徹は愛車の運転席に乗り込んだ。
既に路上にかなりの水が溜まりはじめている。
バーナビーがシートベルトを締めるのを眼の端で確認して、
虎徹はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
バーナビーはラジオをつけ、渋滞情報と台風の影響をチェックする。
―ここで交通情報です。Sルーパーは全ライン停止。
モノレールも全線運休しています。
次に道路情報です。シュテルンビルト高速道路、湾岸線は通行止め。
環状線はブロンズウエストとシルバーイースト上層階方面インター封鎖。
イーストブロンズ、ウエストシルバーから上層階にお入りください。
ブロックスブリッジ全面通行止め・・・
「虎徹さん、高速のインター進入規制です。昇りはイーストからだそうです。」
全スロープの進入を許すと上層で渋滞が起きるから
警察の指示に従って迂回するようにとラジオが繰り返し警告している。
「了解。バニーは情報収集が上手くて助かるわ。」
そういえばバーナビーを乗せるときはナビ使わなくなったなと虎徹は思った。
「引き続き道路情報を頼むわ、バー『ナビ』−?」
「うっわ、今どさくさにオヤジギャグ言いましたね?」
「んだよ、ちゃんと名前を言っただけだろ?」
「僕はバー『ナビ』−じゃありません、バニーです。」
「ぶは!遂に自分でバニーちゃん呼びした!!」
虎徹の笑い声にバーナビーも笑い返す。
ワイパーで拭いきれないほどの豪雨がフロントグラスを覆い尽くす。
その隙間から信号の赤が滲むように光る。
「すげえ雨だな。徐行しねえと事故になりそうだ。」
虎徹は笑いながらも速度を落とし高速の入り口に向けハンドルを切った。
「何とか間に合ったな。」
虎徹はタオルで頭を拭きながら窓の外を見た。
「近所のタワー型パーキングが空いててよかったですね。」
「だな、ここのゲスト用パーキング地下だもんな。」
流れ込むゴールドステージ表層の雨水で水没するかもしれない。
バーナビーの判断で立体駐車場に車を入れたのは正解だったと
虎徹はほっと胸をなでおろした。
「そういえばお前のは大丈夫なのか?」
住民用の車庫も一階だったように思うがと虎徹は訊ねた。
「僕も今朝あっちに車を移してから虎徹さんの家に行ったんです。」
「だよな。お前がそんなへまするわけねえわな。」
さっきのテキパキとした動きといい、ほんとこいつ優秀だよなーと
虎徹はバーナビーの対処能力に感心した。
分厚い強化ガラス越しにも風の咆哮が聞こえる。
二人は大きな窓の前に並んで嵐のシュテルンビルトを眺めた。
「すげえな…。」
「凄いですね…。」
大型車両が風で動かされ、工事現場の鉄柱が宙に舞い上がる。
「人的被害が出ないといいけどな…。」
出動要請があればすぐ行かなくてはならないが、
この分だと明日の朝にでも飛来物の除去で呼ばれるくらいだろうか。
「まあ、こういう時くらいは二部の立場を利用させてもらうか。」
何かあっても呼ばれるのはまず一部だろうと虎徹は顎を掻いた。
「どうでしょうね。アニエスさん平気で呼び出してきそうですよ。」
「『パワー系が要るのよ!!手伝ってちょうだい!!』ってか。やめろよフラグ立てるの。」
「大丈夫ですよ。貴方得意でしょ、フラグ壊すの。」
「へ?」
自覚のない虎徹にバーナビーはくすくすと笑った。
夜の闇を裂いて雨雲が時折光り、ゴロゴロと空が唸る音が聞こえる。
虎徹の家で聞いた遠雷がずいぶん近くなった。
バーナビーがそう思ったその時部屋が突如暗転した。
「うわ、停電か?」
泡を食って天井の照明を見上げた虎徹にバーナビーは柔らかく笑った。
「大丈夫ですよ、すぐにここの自家発電装置が…。」
その時閃光が部屋を激しく照らした。
ドオオオオオン!!
「おわ!?」
「うわあっ!」
虎徹は驚いた。
どこに落ちたのか激しく轟く雷鳴にもだが、それ以上に驚かされたのは、
落雷に驚いて自分の胸に咄嗟にしがみついたバーナビーにだ。
「バニー?」
僅かに震えているように見えたバーナビーの肩に虎徹がそっと手を置くと、
バーナビーははっと弾かれるように身を離そうとした。
「す、すみません…。ちょっと驚いてしまって…。」
停電の中、時折窓を貫くように射しこむ雷光が
バーナビーのうっすらと紅い頬を照らし出す。
虎徹は狼狽するバーナビーに驚いたがやがてふっと笑った。
「うん、俺も驚いた。すげえ音だったもんな今の雷。」
そう言って虎徹はバーナビーの頭を胸元に抱え込んだ。
「あの…虎徹さん?」
「俺さあ、雷ってあんまり得意じゃねえんだよ。ちょっとこうしててくれや。」
虎徹はそう言いながら抱え込んだ頭をぽんぽんと撫でた。
「あー、すげえ音。びっくりしたわー。」
そうは言うが、その鼓動は全く乱れていない。
「キッドのおかげでだいぶ慣れたけど、天然のは違うよなー。あービビった。」
自分の肩を軽く叩きながら大げさに言う虎徹に
バーナビーはやっぱり敵わないなと肩を竦めた。
この人の包容力は10年経っても追いつく気がしないと。
<でも今どうして驚いたんだろう…?>
特に雷を怖いと思ったことなどなかったはずなのにとバーナビーは首を傾げた。
…いや、違うか。昔は雷が嫌いだった。
バーナビーは遠い過去をふと思い出した。
忙しかった養父。
真面目だが決して温かくはなかった屋敷の使用人たち。
小さい頃は嵐の夜はシーツにくるまって震えていたっけ。
そんなことずっと忘れていた。
唐突に思いだしたこれはきっと、操作されていない本当の思い出。
さっき悲鳴をあげたのはたぶん幼かった頃の自分だ。
記憶の奔溢で一瞬だけ心があの頃に戻ったのだろう。
まさかこんな事を思いだすなんて。
懐かしい大事な記憶なんかじゃないけど…。
でも自分の中の空白がこうして埋められていくなら
雷にひどく驚かされるのも悪くない。
それに…。
バーナビーは自分を抱きしめる人の胸の温もりにそっと笑みを浮かべた。
<今はこうやって嵐から守ってくれる人が傍にいるって思えるし。>
バーナビーは虎徹の背に両腕を回し眼を閉じた。
規則的な鼓動が優しく耳に響く。
「虎徹さんが傍にいてくれてよかった…。」
虎徹は妙にしおらしいバーナビーの様子に驚きつつも、
滅多に見ることのないその表情と所作に年甲斐もなく頬を赤くした。
<マジびっくりした!さっきのバニーちゃん…可愛い過ぎんだろおい!!>
よもや雷に驚く成人男子がこんなに可愛く見える日が来るなんて。
虎徹は己の動揺を気取られまいと、バーナビーを強く抱きこんだ。
<しっかり者の頼りなげな一面ってこんなにぐっと来るもんなんだなー。>
前に折紙がそんなこと言ってたな。
なんだっけ、ギャップ萌え…とかいったか。
もっとも虎徹の心と体は萌えだけでは収まりそうもない。
「バニーちゃん、キスしていい?」
「え?」
俯いていたバーナビーがその言葉に顔をあげると、
返事をしようとしたその口は温かな唇に塞がれた。
終り