←TOP



division point 

 

 

身動ぎにベッドのスプリングが軋む感触で目が覚めた。

ブラインドの向こうはまだ真っ暗で鳥の声も聞こえない。

隣で眠っていたはずのバニーが身を起こす気配がして、

左腕からあいつの重みがなくなるのを感じた。

どうしたと声をかけようとしたが、やっぱりやめた。

サイドボードの上を探るような小さな物音に、

喉が渇いたか何かで下に降りようと

眼鏡を探してるんだろうと思い至ったからだ。

俺を起こすまいとして暗闇の中を手探りで探しているのに、

声を掛けたら起こしてしまったと気を遣うだろうしな。

それにしても近視って不便なんだな。

ちょっと下に降りるだけでも眼鏡ないと見えないなんて。

ヒーロースーツの時フェイスガードあげてるの、あれ大丈夫なのかな。

そんなことを考えていると、白い光が瞼を刺すのを感じた。

ああ、携帯のバックライトか。

かなりの近視と暗闇のせいで、

すぐそこにあるはずの眼鏡が見当たらないんだろう。

そんなの使うくらいなら電気つけりゃいいのに。

探し物は見つかったようで、ほどなく白い光が消えまた闇に包まれる。

俺はすうっと眠りに引き込まれそうな心地よさに身を委ねようとした。

その時だった。

ふいに俺の手を包んだ温もりに俺はまだ眠い眼を少し開いた。

手の甲にキスをする柔らかくて温かい感触。

ちょっと、何それ。

すっげえ可愛いんですけど!!

起き上ってもっかい押し倒しちゃおうかな。

そう思ったけれど、俺はかけようとした声を飲みこんだ。

バニーが俺の左手をそっと握り、ある一点をじっと見つめている。

暗くてよく見えないが、その顔が妙に虚ろに見えたのは気のせいだろうか。

<なんか…変だな、バニーの様子…。>

すると俺の薬指の根元にバニーの指が触れる感触がした。

…なんだ?

細い指が俺の指輪をそっと摘まみ、指先へとスライドする。

けれど指の関節に阻まれてリングは引っかかり動きを止めた。

そのほんの僅かな衝撃に、バニーはびくんと電気でも走ったみたいに身を竦めた。

「僕は…今何を…。」

俺の手を持つバニーの手が震えている。

ああ、無意識でやってしまったんだな。

不思議とバニーのしたことに怒りは感じなかった。

「なんてことを僕は…!!

引き攣ったような小さな声が痛々しい。

そんな気にするなよ。

俺はつい、あいつの手を握った。

けれどバニーの手の震えは止まらない。

…ここは、寝た振りでスルーしてやるほうがいいかな。

ヘタに声かけたら余計にバツの悪い思いをさせそうだ。

俺は寝がえりを打ってバニーに背を向けた。

 

やがて衣擦れの音がしたかと思うと、下に降りる足音が遠ざかっていった。

バニーが階段を下りる音がやんで、俺はそっとベッドから身を乗り出した。

どうやらリビングのソファにいるようだ。

サイドボードには携帯が置きっぱなしだし、

ロフトの手すりには革のジャケットがひっかけられたままだ。

まあこれなら家の外には行かないだろう。

あいつの気持ちが落ち着くまで知らんふりしてやるのも大人ってもんさ。

そう思っていたけど、やっぱり気になる。

後を追うか追うまいか。

ゴロゴロと寝がえりを打って悩んで、一応様子を見に行こうと決めた。

あいつ、しょうもない事でも自分を追い詰める癖があるからなあ。

俺は起き上るとサイドボードの読書スタンドをつけようとした。

その時、さっきよりも幾分大きな…というより慌てたような足音がして、

玄関のドアが開いて閉まる音が聞こえた。

マジかよ!?

まだ春先で気温だってやっと二桁いったところだ。

こんな時期に上着も着ずに外に出るなんて風邪引くぞ。

ジャケットも携帯もここにあるからすぐに戻るとは思うけど、

やっぱり追いかけたほうがいい。

この辺は治安だってブロンズの中ではましな方ってだけで決して良くはない。

こんな夜中に人気のない路上であんな美人が一人でいたら

ものの1分もせずにろくでもないのが寄って来るに決まってる。

まあ天下のKOHを力づくでどうこうできる奴がいるはずもないけど。

だからって心配しないわけがない。

 

俺は手元の照明をつけた時、サイドボードの上で倒れている写真立てに気がついた。

おそらく暗闇の中手探りで眼鏡を探しているときに手が当たったんだろう。

そのすぐ横にバニーの携帯があったから。

その時俺の中で点と点が繋がった。

 

バニーの妙に虚ろな顔。

無意識に指輪を外そうとしたこと。

自分のしようとしたことにショックを受けてベッドを出て行ったこと。

それはつまり…。

バニーは友恵に負い目を感じているということだと。

 

死んだ人間には勝てないとよく言うが、まさにそれだ。

バニーの心の中にある友恵への負い目が、

彼女に責められるような錯覚を起させたのだろう。

うちには友恵の写真がそこらじゅうにあるから、

何処に居ても居た堪れなくなって外に出たのか…。

でもバニーを非難しているのは友恵ではない。

それは、ほかでもないバニー自身だ。

そして…。

「俺が…そう思わせたんだよな…。」

俺は倒れた写真立てを手に取り、重い息をついた。

無意識に俺の結婚指輪を抜き取ろうとしたバニーの気持ちを思うと、

俺は今までどれほど残酷なことをしてきたのかとようやく自覚した。

友恵を忘れてしまうのが怖くて写真を片付けられなかった。

以前バニーが『そのままでいい』と言ってくれたのをいいことに。

指輪を外さない理由だって、言えば納得してくれるのは分かっている。

なのにそれを俺は全部なあなあにしてきた。

ああ、なあなあにするっていうのも日系人独特かもしれない。

はっきり言うのが当たり前の白人文化で生きてきたバニーに

オリエンタルの文化を言われなくても理解しろという方が無茶だ。

 

迎えに行ってやらないと。

抱きしめて、誰もお前を責めてはいないと分からせてやらないと。

でも…どうやって。

口で言ってああそうですかと思うくらいなら、

最初からそんなに思いつめたりしない。

もっとバニーが心から安心できる方法で分からせてやらないと…。

でもその方法が思いつかない。

俺は結婚指輪に触れ、どうしたものかと思った。

これを外すことはできない。

友恵への愛の証だからというのもあるが、それ以前に外れないんだ。

長年つけっぱなしにしてる間に変形してしまった指の関節が邪魔で。

それを言えばバニーはまさか切れというような人間じゃない。

むしろ俺が切るとでも言おうもんなら絶縁上等でブチ切れるだろう。

早くに孤児になったあいつは、家族の思い出の品と言うものに人一倍弱い。

それは言いかえれば人一倍、他人のそれを尊重することができるやつだ。

でもな、バニー。

それがお前を傷つけていいってことにはならないんだ。

そしてふと思い至った。

この指輪は外せないけれど、新しくつけることはできると。

でも…それは一番いい選択なんだろうか。

 

俺とこれからもずっと一緒にいること。

その選択はバニーの将来にとって良くないのではないか。

俺はずっとそう迷っていた。

あいつはいつか俺と別れて綺麗な嫁さん貰って可愛い子供にも恵まれなきゃいけないと。

あまりにも早く失った家族の幸せを手にするべきなんだと。

でもやっと分かった。

そんなことは俺が決めることじゃない。

俺の一方的で保守的な『理想の家族像』の押し付けはあいつを傷つけるだけだった。

誰と人生を共にするか。

その選択肢は俺がバニーに提示してやらないといけないんだ。

あいつは俺の後ろに友恵の影を見て怯え、

その選択を俺に提示することができないのだから。

「友恵…。俺、もう一回誰かと一緒に生きても良いよな。」

もちろん楓の事はこれからも親として守っていくからさ。

俺はそう誓って階下に降りた。

 

玄関に近づくと外からバニーの険のある声が聞こえた。

やれやれ、やっぱり絡まれてるよ。

あいつ口調は丁寧語だけど声のトーンが半端なくイラついてる。

短気なバニーが絡んできたチンピラ半殺しにする前に止めとくか。

「おにーさん、死にたくなかったらやめときな。」

俺はドアを開け、欠伸交じりに眼の前のチンピラに言った。

スキンヘッドにタトゥにバタフライナイフねー。

笑っちゃうくらい個性のないチンピラだな。

バニーが普通の人間だったら怖くて身動きとれないんだろうけど。

虫の居所の悪かったバニーは一発かます気満々な目をしてやがる。

闇に乗じての八つ当たりもいいところだ。

やめなさいね、お前の脚はチンケなナイフより殺傷力あるんだから。

チンピラ君はうちの灯りでやっとバニーの顔をまともに見たらしい。

今更気がついて震えあがってガタガタいってら。

KOHを乱暴しようとしたその蛮勇だけは評価してやるよ。

ほら行った行った。

俺がしっしっと手を振ると男は素っ頓狂な悲鳴を上げて逃げて行った。

 

「虎徹さん…。」

気まずそうな顔でバニーは俯いている。

「バニー、風邪引くぞ。中に入ろう。」

俺は上から持ってきたジャケットをバニーの肩に引っかけた。

少し震えてるのは寒かったからか、まだ友恵の影におびえてるからか。

「なんか、目が覚めちまったな。温かいものでも飲もうか。」

俺はそう言ってバニーの肩を抱いた。

こうしとかないと、この逃げ足の速いウサちゃんはエスケープしかねない。

「眼が覚めたらお前いないし、心配したぞ?

何も気づいてないふりで俺はできるだけ優しく言った。

バニーは束の間俺をじっと見ていたが、やがて肩を落とした。

「…ごめんなさい。」

ああ、さっき指輪抜こうとしたことか。

それを言うなら俺だって…。

俺はバニーの冷え切った体をぎゅっと抱いた。

 

何か温かいものでも飲んで、もう少し寝よう。

昼前までゆっくり寝て朝飯食ってさ。

それでさ、昼になったら…。

 

俺はバニーの左手をとって薬指をそっと摘まんだ。

「ここに嵌める指輪買いたいんだけど、付き合ってくれる?

俺のこの指輪、節が邪魔で抜けねえんだ。

重ねづけになるんだけど…いいかな。

そう言うとバニーはまだ信じられないような驚いた眼で俺を見ている。

なあバニー、友恵はお前を怒ったりしていないよ。

あいつは俺がまた誰かと幸せになるのをきっと祝福してくれる。

「俺の一番大事な人って証を、ここにつけてほしい。」

みるみるうちにバニーの眼から涙が零れ落ちた。

「僕が…虎徹さんの一番…?

おいおい、そんな意外そうに言うなよ。

お前の中の俺、どんだけ酷い奴なんだよ。

「嬉しい…です…。」

笑ってるのに、声が涙で掠れてる。

…ごめんな。

長い間、こんなにも辛くて悲しい思いさせてたんだな。

「僕も…貴方が一番…。」

涙交じりの鼻声でバニーは俺に抱きついてきた。

あーあー、ハンサムが台無しだぞ。

俺はしゃくりあげる決して小さくはない背中を撫でた。

 

バニーは人生の岐路で俺を選んでくれた。

絵にかいたような家族像ではなく、くたびれた中古物件の俺を。

それがただただ誇らしくて愛おしくて。

俺はしんしんと冷える玄関先でいつまでもバニーと抱き合っていた。

ああ、幸せってこういうことだったんだな。

やっと思い出したよ。

俺は下駄箱の上にある友恵の写真に誓った。

今までありがとう。

俺、この先の人生必ずこいつと幸せになるから。

腕の中でまだ泣いているバニーを宥めながら、

俺の頬にも熱いものが初めて流れて落ちた。

 

終り