←TOP


ひとりじゃない

 

「ではバーナビーさんご活躍を祈って。」

「御社のますますのご発展を祈って。」

乾杯といい妙に甘い酒を飲みほした途端、視界が反転した。

舌先にピリピリとしびれが残る。

<なに…!?

ふらりと倒れそうになるのを、膝に力を込め何とか踏みとどまった。

眼の前の男に一服盛られた。

そう気がついた僕は湧きあがる嫌悪感と睡魔を懸命に抑え込んだ。

この業界にそういう悪しき因習があったのは聞いたことがあったが、

マーべリックの後ろ盾があった頃は全く縁がなかった。

二部の今ならいけると安く値踏みされたのか。

予測しうることだったのにという自分の迂闊さと

拒否できない相手を意のままにせんとする男の卑劣さに吐き気がする。

「おや、大丈夫ですかなヒーロー?

宴席で酒を勧めたスポンサーがニヤニヤと笑みを浮かべ僕に手を伸ばしてきた。

いけしゃあしゃあと言ってくれる。

「大丈夫です…。どうもお見苦しいところを…。」

この野郎と思ったが、立場上突き飛ばすわけにもいかない。

「あちらに控えの間を用意しています。ご案内しましょう。」

心の中で舌舐めずりしているであろうこの男を僕は睨むしかできない。

いくら世間でヒーローと持て囃されたって、

スポンサー主催の会食の席では奴らに主導権がある。

「ご心配をおかけしました。大丈夫ですのでお気遣いなく。」

なんとか上手く立ち回ってこの場を回避しなくては。

だが眼の前のこの男はチェックメイトとでも言いたげな目で僕を見ている。

「控えの間にはベッドもある。少し横になられるといい、私がご案内しましょう。」

「それはどうも。でも俺が連れていきます、ミスター?

急に聞こえたその声とともに僕は力強い手で支えられた。

スポンサーは驚きに目を見開いた後小さく舌打ちした。

「バーナビーさんはお疲れのようだ。今日はもう休まれるといい。」

観念したらしいスポンサーは僕を未練がましい目で見たが、

後ろで睨みを利かせる虎徹さんに言い訳がましく言った。

「何なら控えの間で一泊なさるといい。あなたも是非ご一緒に。」

その言葉に虎徹さんはハッと嘲笑の息をついた。

「遠慮しとくよ。どうせカメラでも仕掛けてあるんだろう?今後のために。」

その言葉に僕は驚いた。

つまり…ハメ撮りした挙句にそれをネタに今後も身体の関係を強要しようと?

どこまで下劣な…。

「ったく…未だにそんなことやる奴がいるとはな。」

こんな男にいいようにされそうになっていた。

そう思うと怒りとおぞましさで震えてくる。

「おっしゃる意味が分かりませんな、ワイルドタイガー。」

矮小なスポンサーのいい逃れに虎徹さんはもういいと首を振った。

「穏便に済ませてほしかったら言っておく。二度とバーナビーに近づくな。」

僕から虎徹さんの顔は見えないが、見当はついた。

低く鋭い声と竦み上がったスポンサーの顔色がそれを物語っていた。

「それでも近づくようならこちらにも手段はある。いいな。」

言うだけ言い捨てて虎徹さんは僕の肩を支え、足早にその場を去った。

 

 

それからずっと彼は黙っていた。

虎徹さんが怒っているのが僕に対してもなのは明白だった。

パーティ会場のホテルからタクシーで僕を自宅に送ってくれる間、

彼は無言で窓の外を見ていた。

普段うるさいほど饒舌な彼のこういう沈黙が怖い。

「あの…虎徹さん…。」

虎徹さんはちらりと僕を一瞥すると、僕の頭を強引に自分の肩に寄せた。

「寝とけ。着いたら起こしてやる。」

眠れそうになんてなかったけれど、その場の空気が居たたまれなくて

僕は素直に目を閉じ眠ろうとした。

でも眠れるはずなんてなくて。

一度だけ、そっと薄眼で虎徹さんの様子を窺った。

彼は窓の外を睨んだまま。

「くそっ…なんで…。」

苛立たしげに髪を掻く虎徹さんに、僕はただ眠ったふりをするしかできなかった。

 

「バニー、着いたぞ。」

いつしか僕は本当に眠ってしまい、タクシーがマンションの前についていた。

車から降りようとすると飲まされた薬のせいでふらつく。

「無理すんな。掴まれ。」

虎徹さんはぶっきらぼうに僕の背を支えた。

二人黙ってエレベーターに乗り込む。

エントランスから自宅まで沈黙の道のりが妙に遠く感じられた。

漸く自宅にたどり着き、虎徹さんは僕を寝室のベッドに下ろした。

スーツのジャケットを脱がされ、そっとベッドに横たえられる。

そして、はーっと聞こえる深い溜め息。

 

ああ、僕のあまりの無防備さに呆れたんだ。

自分で自分の事も守れないのか、と。

こんな事は一部にいた頃は全くなかった。

マーべリックの事は今でも許せないけれど、

それでも奴が僕を庇護してきたのも事実だったんだ。

なんて甘ちゃんだったんだ僕は。

こんなことがまかり通っていることさえ本当は何も分かっていなかったなんて。

そう思うと情けなくて、また体が震えてきた。

その時だった。

ポンポンと優しく肩を叩かれた。

あやすように、労るように。

「バニー、お前に非はないから。」

その声にスポンサーを咎めた時のような険はなく、

宥めるような優しい声だった。

僕は驚いて虎徹さんを見上げた。

「どうせお前、自分が油断したからとか自分を責めてんだろ?

彼はちょっと困ったような笑い顔で僕の髪を撫でた。

「あれはスポンサーのパワハラだ。だから自分を責めるな。」

パワハラに泣き寝入りするなんてお前らしくないぞ。

そう言って虎徹さんは僕を焚きつけてくれる。

僕が負けん気の強い性分だと知っているから。

あ、いけない。

僕はあの場で割って入ってくれたことにお礼を言っていなかったと気づき、

横になったまま頭を下げた。

まだ起き上がれそうになかったからだ。

「あの…さっきはありがとうございました。」

虎徹さんは笑って首を横に振った。

「気分はどうだ?まだ辛そうだな。」

「なんだか体が重くて…頭もぼんやりします。」

そうか、と虎徹さんは心配そうに眉根を寄せた。

「薬、何飲まされたか分かるか?症状は?

僕は手脚を動かしたりして動きを確認した。

知覚と運動系は異常ない。

「多分、眠剤の弱いものかと思います…。」

アルコールに溶かすなら効果の強いものだとその場で失神することもある。

それでは別室に連れ込めず、下手をすれば救急車騒ぎになる。

それで効き目の弱いものを選んだのだろうか。

いや、もしかしたらそれなりに強かったのかもしれない。

ただ、僕は睡眠導入剤を長年服用してきたので耐性があっただけかも。

僕がそう言うと、虎徹さんは安心したようだった。

「睡眠薬ならもう心配はないな。おかしなドラッグとかじゃなくてよかった。」

ドラッグ…考えただけでぞっとする。

「にしても、あんなカビの生えた手を使う奴が今どきいるとはなあ。」

そういえばそんなことをさっきも言っていたっけ。

「こういうこと昔はよくあったんですか?

虎徹さんは哀しそうな眼で頷いた。

10年くらい前はな。今じゃ考えられないような『営業』が結構あったんだよ。」

 

スポンサーで寝ることで仕事を獲る枕営業。

ヒーロー業界の黎明期にはそんなのが本当にあったんだ。

もちろん全員じゃねえけどな。

スポンサー企業側も大概汚れてた。

酷いのになると一服盛って能力を封じた後で暴行、その映像で脅迫する奴もいた。

笑えねえだろ、カメラが止まるとヒーローが犯罪被害者だったんだよ。

ヒーローTVディレクターやプロデューサーと企業でのヤラセもザラだった。

もっともTV関係者の方はアニエスがプロデューサーに就任してから

そういう膿は全部切って捨てられたけどな。

でもマクラの方は数年前まで横行してたんだ。

所属企業によっちゃ、ヒーロー事業部ぐるみのとこもあってさ。

可哀そうな目に遭っていたヒーローは少なからずいたんだ。

俺は会社と上司がまともだったからそういう憂き目には遭わなかったけど。

でも粉かけてきた奴はいたし、変な薬飲まされたこともある。

あん時はヤバいと思ったわー。

 

「その時虎徹さんは大丈夫だったんですか!?

僕は過去の事なのに心配になってしまった。

「能力発動して逃げた。さすがに天井はぶち抜いてねえぞ?

虎徹さんは僕の頭を撫で、からからと笑った。

けれど、すぐに表情を暗くした。

「今日のオッサンなんか、まさにあの時代の遺物だな。」

そう言うと虎徹さんは悔しそうに唇を噛んだ。

「バニー、さっきは済まなかった。」

「え?

僕はわけが分からず聞き返した。

虎徹さんは沈んだ顔で僕の目を真っ直ぐに見た。

「お前がその辺の事情に疎いの気付かず、あそこで独りにしてごめんな。」

さっきのパーティでの事か?

それぞれ挨拶しなきゃいけない相手と話をしていたんだ。

僕の側にいなかったのは当然なのに。

「そんなの虎徹さんが謝ることじゃないでしょう。」

僕がそう言っても虎徹さんは首を横に振った。

「もしお前があいつに傷つけられてたらと思うと俺…。」

そう言って虎徹さんは大きな手で自身の顔を覆った。

…ああ、そうか。

それでタクシーの中で怖い顔して外を睨んでいたのか…。

あの時呟いた『くそっ…なんで…。』という呻きに似た言葉。

なんで、の後には『あいつを独りにしたんだ』と続いたのか…。

僕に自分を責めるな、なんて言っておいて貴方自身が自分を責めているなんて。

「虎徹さん、自分を責めないでください。」

虎徹さんは傷ついた目で僕を見つめた。

「貴方に倣って、次にあんなことされたら能力発動して逃げます。」

僕はそう言って笑った。

そんな醜態をさらしてヒーローの名に泥を塗り会社に迷惑をかけ、

何より虎徹さんを悲しませるくらいなら。

会場の天井をブチ破って賠償金を払う方がまだマシだ。

そう言ったら虎徹さんは目を瞬かせた後、大笑いした。

「そうなる前に俺とロイズさんに言え!あとベンさんにも!!

いきなり天井ぶち抜いたらロイズさんとベンさんの胃にも穴が開くから!

「だからもう独りで頑張らなくていいんだよ。バニー。」

虎徹さんはそう言って僕を優しく抱きしめた。

 

「じゃあ虎徹さんにマクラ持ちかける奴は僕が追い払います。」

「いねえよそんな奇特な奴!!

「貴方、社交界のマダムの熱視線にまだ気付かないんですか?

「何それ俺オバさん受けいいの!?熟女キラー!?怖い、バニーちゃん護って!!

 

僕たちは互いを抱き合いけらけらとバカみたいに笑った。

僕たちは独りじゃない。

そんなことがただ嬉しい。

キスして抱き合ってまたキスして。

僕たちはいつまでもじゃれ合って互いの体温を感じあっていた。

 

 

終り