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いちぬけた

 

いーちぬーけたー。

あー、こてっちゃんずるいよー、鬼が抜けるの反則―。

だってうちもう飯の時間だもん、ほら。

虎徹ー、晩飯だぞ。帰って来い。

な?兄ちゃん呼びに来たから、いちぬけた。またなー。

ちぇー。じゃあばいばい。

 

 

「いーちぬーけたー。」

子供の時以来口にする機会のなかったその言葉がどうして口をついたのか。

俺はそのお気楽なフレーズに溜め息をついた。

そんなので辞められたらどれだけ楽だろうなあ。

人の家の無駄にだだっ広いキッチンでチャーハンを炒めながらふとそう思った。

晩飯の時間がきて子供の遊びが終わりを迎えるように、

俺のヒーローとしての時間ももうすぐ終わりを迎えようとしている。

減退が理由なら契約期間の途中であっても「いちぬけた」は

正当な理由として受理されるだろう。

アスリートが怪我で引退するようなものだ。

続けられないものはしょうがないと誰だって思う。

…本人以外は。

「そんな簡単に言えたら…こんなに悩まねえよなあ。」

友恵の遺言だけを糧にしがみついたヒーローの道。

底辺ヒーローだの峠を過ぎただの言われても歯を食いしばってやってきた。

バニーと組んでからはいろいろあったけど、

10年のヒーロー人生で一番楽しくて充実してて。

なのに「はいそこまで」なんて言われたって納得いかない。

俺自身気持ちの整理なんて全然つかない。

 

でも、現実には俺のタイムリミットは刻々と近付いている。

楓の事もある。

そう長引かせることはできない。

そう思ったのに。

オリエンタルタウンから戻って以来、未だに俺はバニーに話せていない。

「はあ…。どうしたもんかね。」

話せないのはなにも俺側の事情だけじゃない。

なにせバニーがあの状態だ。

今のバニーにこの話をしたら、たぶんあいつの心がもたない。

今日のところは黙っておこう。

これは正当な判断だよな。

俺が逃げてるだけじゃ…ないよな。

そんなことを考えながらもチャーハンは焦がすこともなく出来上がった。

これしか作れないだけに、手が作業工程を覚えていて勝手に火も止めたようだ。

背後にあった作りつけの食器棚を開けると、

大きさに反比例した必要最小限の食器が所在なさそうに収まっていた。

一番大きな平皿を出し、フライパンの中身をそこにあける。

「さて出来たっと。」

へらで綺麗によそい、盆の上に水を入れたグラスと共に載せた。

「飯…すこしは食えるといいけど。」

俺はさっき見たバニーの顔色を思いだして溜め息をついた。

 

「一晩考えさせてください。」

昨日、司法局でジェイクが親殺しの犯人ではないという決定的な資料を

目にした後のバニーの憔悴は酷いものだった。

今となってはあんなもの見せないほうがよかったと後悔する。

そっとしておいた方がいいかと昨日はメール一つしなかったが、

あいつが気になって仕方がなかった。

とうとう引退の事を告白できなかった焦りもあったが、

それ以上にバニーが心配で、今朝早く様子を見に来て仰天した。

もう何日も寝ていないみたいなやつれた顔。

「虎徹…さん…。」

玄関を開けたあいつは俺の顔を見るなり気を失いかけた。

「おいバニー!!しっかりしろ!!

崩れ落ちそうになったあいつを咄嗟にささえ、

熱でもあるのかと額に触れると酷い冷や汗をかいている。

微かに震えてるのは熱の前兆かそれとも…。

俺はとりあえずバニーをリビングの椅子に横にならせた。

「バニー、気分はどうだ?

「…。」

バニーは真っ青な顔で俺を見た。

「…虎徹さんが…?そんなはず…。」

「どうした、何を言ってるんだ?

俺ができるだけ刺激しないようにそっと訊ねると

バニーは引き攣ったような表情で激しく頭を振った。

「誰が…。違う…僕じゃない…!!

「バニー!?

「違う!僕は父さんたちを殺していない!!

「おいバニー!!しっかりしろ!!

がたがた震えながらうわ言みたいなことを言うバニーに、

これはもう医者に見せて精神安定剤でも貰った方がいいかと考えた。

「誰が…誰がやったんだ…。」

涙声で呟いたバニーが痛々しくて、俺はただ抱きしめるしかできなかった。

とうとう、心が限界を超えてしまったんだ。

無理もないよな。

20年も掛けて追い続けたことが無に還ってしまったんだ。

だけど、そんな無力感からこんな病的になるもんなのか?

どう考えても俺が支えてやれる範疇の事じゃない。

専門家の判断を仰いだ方がいい。

俺は時計を見た。

午前7時過ぎ。

まだ病院も開いてない時間だ。

自傷他傷の恐れもないし、救急車を呼ぶほどじゃない。

「バニー、大丈夫。大丈夫だから。」

俺は抱きしめたバニーにただそう言いつづけた。

「…。」

幻覚が治まったのか、バニーは虚脱したように力なく俺の腕に収まっている。

俺はバニーの背を軽くさすった。

「バニー、今日は会社休め。出動も出なくていい。」

俺はバニーの頭を撫でてそう言うとバニーはぼんやりとした眼で俺を見た。

「お前さ、頑張りすぎて疲れちゃったんだよ。少し休め。な?

 

お前は今までよくやったよ。

今ちょっとくらい休んだって、罰は当たらないから。

このままじゃ心も体も壊れちまう。

天国のご両親だって心配してるぞ。

だから、もう休もう。

よく頑張ったな、バニー。

 

言っててなんだか俺まで泣けてきた。

4歳から25歳までって、人生の一番いい時を棒に振っちまうなんて。

もし今後、真実が分かったってご両親は帰ってこないし時間も戻らない。

そんなこと頭のいいこいつは1001000も承知だ。

それでも「いちぬけた」とは言えなかったんだ。

ああ、同じだったんだ…。

こいつも止め時を見つけられずに…。

「ほんと、よく頑張ってきたよお前は。」

俺がぎゅっと抱きしめると、

バニーはふっと顔を逸らし何かをこらえるように俯いた。

「頑張ってなんか…。僕は何も…出来ていない…。」

自分でそう言ってしまったのが心の防波堤を決壊させたのか。

バニーは俺の腕を痛いほど掴み嗚咽を漏らした。

やれやれ。

やっと泣いたな、バニーちゃん。

譫妄にどっぷり浸かるより泣きたいだけ泣くほうがずっとマシだ。

「大丈夫、バニー…大丈夫だから。」

顔を見られたくないだろうとバニーの頭を胸に抱え込むと、

堰を切ったようにバニーは声をあげて泣いた。

 

どれほど泣いただろうか。

その後バニーは漸く落ち着きを取り戻した。

「すみません…お見苦しいところを…。」

「だっ!水くせえなあ!!俺だってみっともないとこ見せてるだろ。」

「それもそうですね。」

「ウソでも否定しろよ。」

そう言って小突くと、バニーはやっと笑った。

「虎徹さん、こんな朝早くに来てくれてありがとうございます。」

まだ憔悴は残っているものの、

言葉や考えはいつものしっかり者のバニーだった。

「だいぶ落ち着いたみたいだな。何があったんだ?

俺がそう聞くと、バニーは困ったように眉根を下げた。

「昨日…あれから記憶がさらに混濁していって…。」

ぽつりぽつりとした話し方だったけど、

バニーは一晩中自分を苦しめた幻覚の事を話してくれた。

それは酷い話だった。

 

炎の中の犯人像が絶え間なく変わり、

家政婦さんやこの間の変態科学者、

とうとう俺や自分自身まで被疑者リストに加わったらしい。

しかも25歳現在の自分が、だ。

もうこうなると荒唐無稽もいいとこだ。

それが夢だという自覚はあるから錯乱しているわけではないようだが、

正気だと言いきれる状態でもない。

とにかくバニーは心身ともに疲弊しきっていた。

聞けば昨日別れてからなにも喉を通らず、

寝ようにも眼を閉じただけで件の譫妄状態になる始末。

このままでは本当に心を病んでしまう。

 

とりあえず食って寝るだけでも人は回復する。

そんなわけで俺は人んちの台所で朝からチャーハンを炒めることとなった。

これ食って少しは元気になってくれるといいんだけど。

 

 

口元に運ばれたスプーンを震える手で取り落とし、バニーは顔を覆った。

「どうして…。」

どうして犯人の顔だけ思い出せないのか。

絞り出すような声で言うバニーに、俺はまたあのフレーズを思い出した。

「いーちぬーけた。」

聞きなれない言葉にバニーはふっと顔をあげた。

「今の、なんですか?

「俺の故郷で子供が遊びをやめる時に言う言葉。」

 

やったことないかもしれねえけど、鬼ごっことか分かるか?

ああ、イメージわかなかったら別にサッカーでも野球でもいい。

集団遊びしてた子供が家の門限とか、単に飽きたとか、

そんな時に「あそぶのやめる」って宣言する言葉。

このグループから一人抜けるって意味。

 

俺がそう言うと、バニーは怪訝な顔で首を傾げた。

「それが…どうしたんですか?

暫くしてふっと自虐的な笑いを浮かべて頷いた。

「ああ、僕の面倒事から『一抜けた』ですか?

…お前なあ。

分かってる、これは本心じゃない。

いろいろ追い詰められて、やさぐれてるだけだ。

でも聞き捨てならねえ。

「てい!

「いった!!

思いっきりデコピンしてやったら白い額が真っ赤になった。

「お前がめんどくさい奴なのは今更!!一抜けするくらいならこんな朝早くに来るか!!

そう言ってまだ8時にもならない腕時計をつきつけたら

バニーはでかい肩をしょんぼりと竦めてうなだれた。

「…ごめんなさい。」

あ、ちょっと言い過ぎたかな。

こいつ、どうでもいいと思ってる相手には心臓に毛が生えてる癖に、

一度心を開いた相手には硝子のハートだからなあ。

ほんと面倒くさいウサちゃんだよお前は。

そこすら可愛いと思ってる俺も終わってるけど。

「お、素直に謝ったから許してあげよう。」

俺はバニーの頭を撫でて、子供に言い聞かすみたいに言った。

 

お前もさ、一抜けたって言えたらいいのにな。

ご両親の仇打ちとか、抱え込んじゃったこと全部放り出して、

なかったことに出来たらいいのにな。

ああ、そんなことできるわけないのは分かってるよ。

でも…出来ないの、苦しいな。

 

 

俺は途中から自分に言い聞かせてるのを自覚した。

出来るわけないんだけどな。

いちぬけた、なんて。

俺だって生き甲斐とか友恵の遺言とか楓の事で

頭ぐるぐるしてるくせになあ。

「虎徹さん?

怪訝な顔でバニーが俺を見ている。

「大丈夫だよバニー。」

俺はもう一度バニーの頭を掻き抱いた。

今顔を見られたくないのは俺の方だけど。

バニーが素直に俺の胸に頭を預けてくるのを感じた。

その重みと温かさに胸が痛い。

良心の呵責ってこういうのを言うんだろうな。

でも聡いお前に今ばれるわけにはいかないんだ。

「いちぬけできないなら、やるしかねえもんな。」

…俺は理解者の皮を被った偽善者だ。

それでも今は、理解者の役を全うしなくてはいけない。

こいつの心が本当にガラスみたいに砕け散らないように。

「ちょっと休んだらもう少し頑張るか。俺も手伝うからさ。」

バニーが顔をあげ、嬉しそうに笑った。

 

ああ、一抜けできないどころか俺は…。

 

前にも後ろにも行けない俺たちは一体どこに辿りつくんだろう。

俺は朝の光の中、バニーとともに未だ闇に中にいるような気がした。

 

 

終り