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君の家に着くまで走ってゆく

 

目の前のバーテンが戸口のほうを向き、いらっしゃいませと穏やかに笑った。

俺もつられてそっちを見ると、アントニオがようと片手をあげた。

「ウイスキー、ロックで。」

隣のスツールに大きな身体を押し込むようにして座り、

アントニオはなんでもいいやというように適当に酒を頼んだ。

「かしこまりました。」

 

「珍しいじゃねえか、お前が俺を呼び出すなんて。何か月ぶりだ、こんなの。」

アントニオはバーテンが差し出したグラスを俺のグラスにぶつけた。

「悪いな。ここんとこ会社にいろいろムチャ振りされててよ。」

トーク番組やらグラビアやら、およそヒーローの本分じゃない仕事に追い回され、

その量がバニーほどじゃないにしても目が回るほど忙しく

前みたいにアントニオと一杯ひっかける暇もなかった。

 

「ちょっとお前に相談したいことがあってよ。」

俺がそう言うとアントニオは太い眉を顰めて酒を呷った。

「ってことは、話はバニーちゃん絡みだろ。喧嘩でもしたのか。」

相変わらず、見かけによらず察しのいいやつだ。

「ああ…。といっても喧嘩じゃねえけど。ちょっと気になることがあってな。」

俺はそのことを思い出し、また胸に落ち着かないものを感じた。

「気になること?

「一昨日のことなんだけどな…。」

 

俺は先日バニーがうちに泊まった時のことを掻い摘んで話した。

バニーが妙に思い詰めた目で友恵の写真を見ていたこと。

俺が写真を片付けると言ったら、それは絶対に駄目だと言い張ったこと。

友恵や楓とのことも含めての俺を好きだから何も変えてはいけないと、

今だけ自分を見ていてくれれば、それ以上何も望まないと言ってくれたこと。

 

そこまで話した時、アントニオがはあと溜め息をついた。

「念のため確認するが、俺を呼び出したのは相談のためで惚気るためじゃねえよな?

カウンターに置いた手が握られている。

って、本題が惚気だったら殴る気かよ。

「ったりめーだろ。もうちょっと聞いてくれ。本題はここからだ。」

俺がそう言うと、アントニオはやれやれと聴きの姿勢に戻った。

「俺が気になったのはさ…。」

俺はそう言って自分の左手の薬指を指した。

 

あいつは「結婚()指輪()があるほうが僕は勘違いしなくて済む」、

確かにそう言ったんだ。

俺が聞き返すと「なんでもない」ってはぐらかされちまったけど。

結婚指輪があったら…いや、もしなかったらあいつが何を勘違いするってんだ?

いろいろ考えたけど、さっぱり分かんねえんだ。

ただ、なんかそこ、一番大事なとこのような気もするんだよなあ。

 

アントニオはさっきよりさらに渋い顔で、もう一度ウイスキーを呷った。

「なるほどな。確かにお前には難題すぎるな。」

?

なに、それじゃお前、今の話だけで分かったの?

「バーナビーもそれを口にしちまったってことは、結構限界近いのかもな。」

え、え?

限界って、何のだよ…。

「言えないけど分かって欲しいから、あえて『ついぽろっと言っちまった』のかな。」

アントニオはグラスを置き、厳しい視線を俺にぶつけてきた。

「分かんねえのか。お前、バーナビーにかなり残酷な仕打ちしてるぞ。」

ええっ!?

俺がバニーにそんなひどい真似してるって…。

「まあ、気づいてねえとは思ったけどよ…。ほんと鈍いよなお前。」

呆れたように溜め息をつき、アントニオは「ったく」と吐き捨てるように呟いた。

 

こういうことに外野が口を挟むべきじゃないとは思うがな。

聞いてる限りじゃバーナビーがあまりにも気の毒だから言っておく。

まず、バーナビーは写真や指輪に関しては相当無理してると思うぞ。

そりゃ、誰だって嫌に決まってるだろ。

前妻との結婚指輪やら結婚式の写真やら子供の写真やら。

それ見るたびに自分はお前の一番じゃないって思い知らされるんだから。

それでもバーナビーは『そのままでいい』って言ったんだな。

で、お前はその言葉を額面通りに受け取ったのか?

あいつが『こんなもの片付けてほしい』なんて言えると思うか?

普通の恋人でも、そこは憚るだろうな。

まして、あいつは小さい時に両親亡くして寂しい思いして育ったんだろ。

楓ちゃんから親を奪うような真似はできないと思ってるんだろうな。

 

「そんな…。それならそうと…。…そっか、言えないよな…。」

俺は、知らないうちにあいつを傷つけていたんだ…。

あいつ、自分の問題となると結構キレたり激情家のくせに、

人との関係になると途端に貝になるとこがあるからなあ…。

そして、俺はそうやってなんでも自分の内に抱え込んでしまうあいつを

分かった気になって、何にも分かっていなかった。

寂しがり屋のくせに意地っ張りで、言っていい程度の甘えや我儘すら、

その言い方も知らない不器用な兎に辛い我慢をさせつづけた。

「可哀そうなこと…しちまってたんだな、俺…。」

アントニオはもう一杯酒を注文し、落ち込んだ俺に差し出した。

「気落ちしているところ悪いが、本題のほうが重罪かもしれんぞ。」

 

本題の「結婚指輪があれば勘違いしないで済む」だが…。

バーナビーの言いたいことは、俺は何となく解る。

だがそれを俺の口から言ってしまうのはどうかと思う。

だから、ヒントだけにしておくから自分で考えろ。

結婚指輪はどんな意味で、誰と揃いで付けるものだ?

その指輪を手にした時、その相手と何か約束しなかったか?

こんだけ言えば、いくらお前でもわかるだろ。

その答えと、バーナビーに対してどうするか、ゆっくり考えるんだな。

 

アントニオは諭すような口調で静かにそう言った。

 

結婚指輪の意味…。

この指輪は当然、友恵と対で…。

約束…教会で友恵と永遠の…。

俺はその問いかけに、冷水を浴びせられたような気持ちになった。

 

俺の永遠の愛は、この対になる指輪の持ち主と共に…。

 

バニーが指輪があれば勘違いしないと言ったのは、

自分への愛が永遠のものだと、そう勘違いしないで済む…と…。

あの時友恵の写真を見ていたどこか思い詰めた目は、

永遠は(この)(ひと)のものだから、「今だけ自分を見ていてくれればいい」と…。

自分には「今だけ」しかないと…。

 

「俺…指輪(これ)はもう、想い出というか形見というか…。そんなつもりじゃ…。」

表情を変えた俺を見て、アントニオは真剣な声色で続けた。

「もしお前にとっては過去でも、バーナビーには現在に見えるんだろうな。」

 

もし、お前が真摯な態度であいつに接しているんなら、

どんな結論でも、もう俺は何も言わん。

ただ、お互いの想いがすれ違ってるようだから話し合いでもなんでもしろ。

だが、もしお前が寂しい鰥夫暮らしの慰みにあいつと付き合っているんなら。

悪いことは言わん。

別れたほうがいい。いや、別れてやれ。

お前のためじゃなく、バーナビーのためにだ。

あいつは、割り切ったオトナの遊び相手には一番向かない相手だろうよ。

 

考えもしなかった心のすれ違いに…。

いや違う、俺が一方的にあいつを傷つけていた事実に俺は言葉も出ない。

アントニオはそんな俺を見て、飲みかけの酒の残りを一気に呷った。

「…ちょっと言い過ぎたかもしれん。悪い、俺はもう帰る。」

アントニオはカウンターの上に代金を置くと、

じゃあなと来た時と同じように片手を挙げて去っていった。

一人残された俺は、カウンターに両肘をついて顔を覆った。

 

どうすればいい。

指輪や写真を外したり片付けたり、それで済むことじゃない。

あいつは俺の心がいま何処にあるのかで苦しんでるんだ。

だから、モノは「そのままでいい」だったんだ…。

そんなことはあいつにとっては本当に瑣末なことだったんだ…。

 

馬鹿、考えすぎなんだよ…。

楓のことはともかく、友恵のことは俺にはもう過去だ。

全てを忘れるわけじゃない。

きちんと過去にして、前向いていかなきゃいけないことなんだ。

そして今、一緒に前へ行きたいと思っているのはお前となんだよ。

マジで、どうすればいいんだよ俺…。

 

その時、店の大型モニターから耳に馴染んだ声が聞こえた。

見ると女性アナウンサーとバニーが対談している。

<お二人は随分性格が違うようですが、喧嘩などしないんですか?

<僕とタイガーさんが喧嘩ですか?組んだ当初はよくぶつかりました。>

ああ…そうだよな。あの頃は毎日なんだかんだと揉めてたよな。

画面の中のバニーはとても穏やかないい笑顔で話している。

 

<でも一緒にいるうちに、だんだん分かってきたんです。

タイガーさんは不器用だけどとても実直で、

どんな困難からも決して逃げない人です。

どんなに自分が傷つこうとも恐れず、問題に立ち向かっていく強い人です。

僕はそんな彼を今ではとても尊敬しています。>

 

おいおいバニーちゃん、買いかぶりすぎだって。

俺そんなに強くねえよ。

今だってこうやって自己嫌悪でへこたれて飲んだくれてるし。

でも…そこまで言われたら、もう逃げるわけにはいかねえよな。

 

俺はもう一度TVを見た。生番組じゃないようだ。

もうかなり遅い時間だけど、あいつは日付が変わる前に寝ることは少ない。

懐から携帯を取り出し、短縮ナンバーをコールする。

呼び出し音は3回目で止まった。

 

>虎徹さん?どうしたんですか、こんな夜遅くに。

 

「あ、バニー。今時間大丈夫かな?…うん、なんか話したくてさ。」

…うん、うん。…そっか。

…じゃ、今からすぐそっち行くから。

…わかった。じゃあまた後でな。

…バニー。あのな…。

 

>はい?

 

「や、なんでもない。あとで言うわ。じゃあ、すぐ行くから。」

 

俺は通話を切ると、携帯の画面を見た。

バニーのナンバーに割り当てた白い仔兎の画像がふっと消える。

時間はもうすぐ明日になろうかという時間だったけど、

あいつは今からでも逢いたいと言ってくれた。

すぐ逢いに行く。

そして、きちんと話そう。

もうこれ以上、あいつに寂しくて悲しい誤解をさせたくないから。

届いていない想いはきちんと届けなくちゃいけないから。

 

俺はカウンターに料金を置くと店を出て、タクシーを拾いに大通りまで走った。

気持ちはなぜかとても高揚していて、

100パワーなんかなくても、あいつの家まで走っていけるような気がした。

 

終り