キッチン
「こんにちはー。…って、なにしてるんですか一体。」
虎徹さんの家を訪ねた僕はその散らかりぶりに驚いた。
「お、来たかバニー。悪いけどもうちょっとその辺座っててくれ。」
虎徹さんはそう言って食器棚からお皿の束を取りだすと
ダイニングテーブルの上に置いた。
その食器棚はといえばもう八分方が空になっている。
「ずいぶんな大掃除ですね。」
嫌味のつもりはなかったんだけど、虎徹さんは僕を見てバツが悪そうに笑った。
「いやー、ちょっと片付けるだけのつもりだったんだけどさー。」
「構いませんからどうぞごゆっくり。」
虎徹さんが片づけものをする気になるなんて珍しい。
だから『この時間に僕が来ると分かってて』なんて思わないし、邪魔する気もない。
むしろ何か手伝えることはないかと僕はダイニングテーブルに歩み寄った。
そこはいつもとは別の意味で散らかっていた。
いつものゴミを出し忘れたとか出したものを片付けずにほったらかしとかじゃない。
ダイニングテーブルの上に次々と放り出されていく食器。
見ればその他にも調理器具や家電が雑然と混ざっている。
この数、友恵さんが存命の時のままだとしてもあまりに多い。
一番家族の多かっただろう大人二人と幼児一人の時でこれだけの食器が家にあるなんて。
「すごいなこれ。飲食店でも開けそうだ。」
僕は今一つ用途の分からない金属の箱を手にとって眺めた。
こんな道具を駆使して虎徹さんが料理をするとは思えない。
となるとほぼすべて友恵さんの遺品ということになるのか。
それにしたって、ずいぶん本格的なものもあるんだな。
「ひょっとして友恵さんってプロのシェフだったんですか?」
僕の問いに虎徹さんは一瞬キョトンとした顔をしてははっとわらった。
「普通の専業主婦だよ。そういや日系は他の人種より使う調理器具が多いらしいな。」
「へえ…。じゃあこれは日系の主婦ならスタンダードなんですね。」
人種は違うけど僕の生家にもこれほどの調理器具があったのだろうか。
母さんがキッチンに立っていた記憶は残念ながら全くない。
サマンサおばさんはどうだったかな。
想い出の中の彼女はいつも大きな鍋をかき混ぜていた。
僕の大好きな、サマンサおばさんのビーフストロガノフ。
あれ、そういえばこの金属の箱サマンサおばさんも持ってたような…。
「あ、これパウンドケーキの型だ。」
サマンサおばさんが美味しくなりますようにと笑顔でオーブンに入れていた覚えがある。
「友恵さん、お菓子も作っていたんですね。」
きっとその横で楓ちゃんが目を輝かせてオーブンを覗き込んでいたんだろう。
小さい時の僕みたいに。
「お母さんってすごいんですね。何でも作るんだ。」
「日系の年寄りはもっとすげえぞ。うちの母ちゃん味噌とか自分で作るし。」
虎徹さんはこともなげに凄いことを言った。
それって欧米人で言うならチーズを自前で作るようなものじゃないか。
…日系女性に生まれないでよかった。
料理上手の前妻や義母といちいち比べられたんじゃ堪らない。
いや、僕別に虎徹さんの『お嫁さん』になる予定はないんだけど。
って、何考えてるんだ僕は。
僕は自分の突拍子もない発想が急に恥ずかしくなって
ケーキ型をそっとテーブルの上に戻した。
こんなもの持ってるからそんなこと考えるんだ、きっと。
「でも、何だって突然そこのお掃除なんて始めたんです?」
僕はあまりにも雑然と台に放り出されたキッチン用品を整頓しながら訊ねた。
「ん?いやさあ…。あまりにも使ってないものがそこにドーンとあるのもな。」
虎徹さんの言葉が急に歯切れが悪くなった。
「使っていないものと言っても、生前に友恵さんが愛用していた品でしょう?」
使わないからって要らないものじゃ決してない。
奥さんの遺品がそこにあることの何が悪いんだ?
僕が首をかしげていると虎徹さんは頭をぼりぼりと掻いた。
そして僕たちの背でちょうどいい高さの棚を指した。
「いや、ここにお前と飯食ったり酒呑んだりする時の食器を入れようと思ってな。」
え?
虎徹さんはまだどこかに迷いがあるのか、大きな泡だて器を手に言った。
「お前との場所と、友恵の場所を整頓して分けようと思ったんだよ。」
なんつーの、今と昔の区別をつけるっつうか。
モノの置き場所だけじゃなくて俺の心の中もっつうか。
もちろんここにある道具は捨てるわけじゃねえよ。
箱に入れて大事にしまっとくつもりだ。
お菓子の道具なんかは楓が欲しいって言ってるんで実家に送る予定だけど。
ここら辺の一番使いやすい棚に
友恵が亡くなってから一度も出したことのない大皿とかドーンとあってもさ。
お前と二人でこんな大皿とか5客セットの小鉢なんか使わねえし。
だったらここにチャーハンの深皿とかちょっとしたアテ盛りつける程度の皿を
入れた方が使いやすいと思ってさ。
友恵の形見でも俺には使い方も分からねえような道具はきっちり箱にしまって、
俺らの身長では使いにくい下の方に入れとこうかなって。
ま、あいつはそう狭量な女じゃなかったからそれくらいのことじゃ
怒りはしないだろうしな。
食器棚くらい生きてるもの優先にしたって罰は当たらねえさ。
俺は今、お前と一緒に飯食うのが楽しみなんだからさ。
だからこれからもずっと気持ち良く飯作ったり食ったりできたらいいなーって。
そう言って照れ臭くなったのか虎徹さんはふいと棚に向き直った。
「虎徹さん…。」
不便だから入れ替えようと思った。
その程度のきっかけだと思った食器棚の大掃除にそんな思いがあったなんて。
僕は胸が締め付けられる思いがした。
何か手伝おうかと思ったけれど、そういういきさつなら手伝わないほうがいい。
僕はそっとダイニングテーブルから引き下がった。
彼が友恵さんとのことの一端を
生活の一部ではなく過去の想い出にしようとしてくれているのだ。
僕との今をそこでだけでも優先しようとしてくれている。
その想いを図に乗ってけしかけるようなまねはしたくない。
「まだ少し掛かるでしょう。僕ちょっと買い出しに行ってきます。」
僕がそういうと虎徹さんはえ、と食器棚に背を向けこちらを向き直った。
一緒にランチでもと訪ねてきたけれど、これではチャーハンすら作れない。
中断して外に食べに行こうと誘うのもなんだか違う気がするし。
「きりのいいところまでやりたいでしょう?ランチ何が食べたいですか?」
車のキーをポケットから取り出しながら聞くと虎徹さんは額の汗を
首にかけたタオルで拭った。
「悪いな。昼飯は何でもいいよ。ついでに晩に作るチャーハンの材料も頼む。」
「了解。行ってきます。」
出かけようとした僕に虎徹さんはちょっと待てと言ってバタバタとロフトにあがった。
ほどなく何かを掴んでドタバタと降りてくる。
「目立つからその革ジャケット脱いでこれ着ていけ。」
変装用にと差し出された大きめのパーカーを借り、僕は行ってきますと扉を開けた。
いくら思い出に浸りながらとはいえ、小一時間もあればある程度はカタがつくだろう。
となると近所に買い物に行くと時間を持て余してしまいそうだ。
僕はエンジンをかけ、シルバーステージに上がる幹線道路に向けてハンドルを切った。
シルバーステージに上がって幹線道路を南へ。
ショッピングモールの駐車場は昼前とあって結構混んでいた。
いちいち騒がれたら面倒だ。
虎徹さんに借りたパーカーだけでは心もとないな。
僕は髪を雑に束ねグローブボックスに隠してあったキャスケットを被る。
『帽子はかぶらない主義』。
前にそう言っていたのはファンにそう思い込ませるためだ。
ついでに眼鏡を地味なセルフレームのものに替えて僕は漸く車を降りた。
「さて、なんにしようかな。」
ベーカリーやグローサリー、デリの並ぶ一角をぶらぶらと歩く。
あまり重厚なものを食べたい気分じゃないなあ。
サンドイッチとサラダにしようか。
虎徹さんの好きなホットドッグやピザはここから持ち帰りにすると冷めてしまうし。
僕は野菜多めのものがいいけど虎徹さんは肉っ気が欲しいだろうな。
だったらあのベーカリーのカツサンドが良いかな。
本音をいえば、彼の年齢を考えると中性脂肪の多いものは控えた方がいいと思うんだけど。
いくら今スリムだからって、内臓脂肪は目に見えないんだし高脂血症だって心配だ。
本人に言うとオッサン扱いするなって怒るか拗ねるかだけど。
まあいいか、今日のところは。
せっかく虎徹さんがあの家を僕と過ごしやすいようにしてくれてるんだ。
彼の好きそうなものを買っていくとしよう。
僕はサンドイッチといくつかのデリ、頼まれた夕飯の食材を買い込み
駐車場に戻ろうとした。
「…ん?」
その時たまたま通りかかった店に並んでいるものがふと目についた。
売り場にいた中年の女性が僕に気づきつつ、騒ぐこともなくにっこりとほほ笑んだ。
「いかがですか?この時期限定のスイーツですよ。」
へえ、和菓子か。
この辺りでこういうものを売っているのは珍しいな。
ブロンズの日系街にはいくつか日本式の食品を扱う店があるって
折紙先輩が言ってたけど。
日本式のスイーツはあまり食べたことがないけど、見た目がとてもきれいだ。
春だからかな、ピンク色のお菓子が多い。
何となくショーケースを覗いて僕はふとあることを思った。
それは期せずしてこうなってしまったことへの
ささやかな贖罪の気持ちからだったのかもしれない。
僕は白いスカーフを頭に巻いた売り子の女性にガラスケースの中を指さした。
「このピンクのを3個ください。あ、こっちの緑のも。」
「かしこまりました。ありがとうございます。」
受け取った淡い黄色の包み紙には『卯月屋』という僕の読めない文字と
黄色い月にピンクの兎の絵が描かれていた。
店先に掲げられたタペストリーにも同じ意匠があるからおそらく店名なのだろう。
まるでピンクの兎に誘われたみたいだな。
僕は少しくすぐったい気持で店を後にした。
「ただ今戻りました。」
「おかえりバニー。」
僕が戻った時ダイニングテーブルの上は綺麗に片づけられていた。
「せっかく来てくれたのに気を遣わせて悪かったな。」
虎徹さんが流しで洗った手を拭き、コーヒーメーカーに手を伸ばした。
「お詫びに旨いコーヒー入れるよ。さっき近くの店で豆買ってきたんだ。」
言われてみると、キッチンに見覚えのないコーヒーメーカーが置いてある。
「棚の奥から出てきたんでさ。これは使おうと思って。」
ドリップ式のコーヒーメーカーからいい匂いが当たりに立ちこめた。
「これランチと夕飯の食材です。あとこれを…。」
僕はさっき買ってきた食料とお菓子の包みを机に置いた。
「珍しいものを見つけたので友恵さんに。『オソナエ』…でしたっけ。」
ずいぶん前に虎徹さんが友恵さんの写真の前にお菓子を置いていた。
あれは友恵さんの誕生日だったか命日だったか。
亡くなった人がそこに居るかのように、故人の好きなものを捧げる習慣だと
虎徹さんはその時説明してくれた。
だったらその人がそこに居るようにお土産を置くのは
マナーに反するということもないだろう。
そう思って僕はこれを彼女のために買ってきたんだ。
「色も可愛いし、日系の女の人だったら好きかなと思って。」
虎徹さんはお菓子の箱を見て目を潤ませた。
懐かしいような切ないような。
そんな表情を浮かべ彼は笑った。
「…バニー、ありがとう。これ、友恵の大好物だよ。」
この辺で売ってるの見たことなくってな。
今までお供えしてやれなかったんだ。
虎徹さんは少し掠れた声で言うと、白い皿にピンクと緑のそれを載せた。
「友恵、バニーがお前の好きな桜餅と蓬餅を買ってきてくれたぞ。」
その二つは自分たちの色すぎて、改めて見ると選択は失敗したかなと思った。
けれど、虎徹さんはそんなこと気にもしていないようだ。
虎徹さんは写真の前にお皿を置き両手を合わせ瞑目した。
僕もそれに倣い、目を閉じた。
友恵さん、キッチンという貴女の聖域を侵したようで心苦しいです。
どうか許してください。
虎徹さんが無茶な食事をしないように僕も気をつけますから、
どうか貴女もそこから見守ってください。
いつの間にか弔いの作法を終えていた虎徹さんがリビングのテーブルに
コーヒーとサンドイッチを載せた皿を持ってきていた。
「よし、俺らも飯にしようぜ。」
「はい。」
これからもずっと一緒に食事をしていこう。
時にはこうやって友恵さんも一緒に。
ピンクと緑のお菓子の向こうで、写真立ての彼女は穏やかに笑っていた。
終り