4.願い
「うー、飲みすぎた。」
虎徹はふらつく足取りでアパートメントの階段を上りインターフォンを押した。
「とーもーえーちゃーん、あーけてーえ。」
間の抜けた調子で歌うように呼び掛けるが出てくる気配がない。
「あれ、寝ちまったかな。」
虎徹は静かに鍵を開けリビングに足を進めた。
そこでは何かの書類を読んでいたらしいバーナビーが
灯りをつけたままリビングのローテーブルに突っ伏して眠りこんでいた。
「あーあー。風邪引くぞ。」
虎徹はその光景にしょうがないなと微笑ましげに口角をあげた。
「友恵、一体何を読んでたんだ?」
虎徹は机に散らばる数枚のレポートに眼を通した。
―精神操作系NEXT被害からの脱却についての考察
「なんだこれ…。」
なぜ妻がこんな学術文書を読んでいるのかと首を捻りながらも、
このままでは風邪をひくと虎徹は『友恵』を起こそうとした。
「友恵、寝るなら上で…。」
その時、虎徹の手が偶然バーナビーの氷の指輪に触れた。
「つめた!なに、なんで氷なんか…!?」
薄くなり微かに罅の入ったリングを虎徹は不審げにそっと触れた。
その時虎徹のこめかみに鋭い頭痛が走った。
―これは対のない一人きりの結婚指輪なんです。ただの自己満足ですよ!!
・・・なんで、そんな哀しそうな顔・・・
―これが融けて壊れる前に、何とかしてみます。
・・・なにを、何とかするんだ?
覚えのないはずの光景が次々と虎徹の脳裏によみがえる。
「なんだこれ…!っ!!頭いてえ!!」
その呻き声にバーナビーが眼を覚ました。
「あ…虎徹さん…お帰りなさい。」
まだ少し寝ぼけていたバーナビーはうっかりそう呼びかけた。
その言葉にまた虎徹の精神が揺さぶられる。
―ねえ、虎徹さん。
妻じゃない誰かの優しい声、幸せそうな微笑み…。
「っ…!!なんだ、この記憶…!!」
激しい痛みに呻吟し頭を抱えた虎徹にバーナビーが慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか虎徹さん!!」
その声に虎徹がふいにバーナビーの眼を見据えた。
「…バニー?」
淀みのない眼で虎徹が自分を見て名を呼んだ。
バーナビーは驚きに眼を瞠った。
「虎徹さん!僕が分かるんですか!?」
ズキン!!
「うあっ!!」
また激しくなる頭痛に虎徹は顔を顰めしゃがみこんだ。
「大丈夫ですか!?救急車呼びますか!?」
暫く荒い息をついていた虎徹はゆっくりと顔をあげた。
「悪い、ちょっと飲みすぎたみたいだ。心配させてごめんな、友恵。」
バーナビーを見るその眼はまた光を失っていた。
「…。とにかく、あっちで座りましょう。」
元に戻っていないことに落胆しつつも、バーナビーは僅かな希望を見出してもいた。
なにが引き金になったのか見ていなかったのは悔しい。
だが今、虎徹は明らかに精神を揺さぶられ束の間ながら正気を取り戻した。
<この期に畳みかけるか。さあ、どう切り出す…。>
バーナビーがソファに虎徹を座らせ水の入ったグラスを渡すと、
虎徹はそれを一気に飲み干し重い溜め息をついた。
「こて…あなた、どうかしたの?」
バーナビーの問いに虎徹は逡巡するような顔で中空を睨んだ。
「…あなた?」
虎徹はグラスをテーブルに置きバーナビーの右手を握った。
「なあ友恵…。お前、いつまでこっちにいられるんだ?」
予想外の問いにバーナビーは戸惑った。
「いつまで…。そうねえ、いつまでいようかな…。」
どういうことだ?
友恵さんはここで家族三人で暮らしていたんじゃないのか?
楓ちゃんは夏休みで父方の田舎に行っているという状況設定だったはず…。
こっちにいられるってことは、友恵さんはオリエンタルタウン在住?
単身赴任の夫に会いに一時的にシュテルンビルトに?
いや、それだと楓ちゃんの件と話が矛盾する。
ここにきて虎徹の家庭環境の設定に粗が出始めた。
さっき自分をバニーと呼んだことといい、何か変化が起きている。
バーナビーは思いきって虎徹に合わせることにした。
「ね、いつ頃までいてもいいのかな。」
虎徹は愛しそうに友恵を抱き寄せ、それでいて寂しそうに言った。
「そりゃ、お盆が過ぎたら戻らないとダメだろ。」
子供に言って聞かせるような口調で虎徹はバーナビーの髪を撫でた。
<オボンってなんだ?日系の風習?ああ、折紙先輩に聞いたら一発なのに。>
とりあえず『お盆には帰らないとだめ』らしいとバーナビーは話を合わせた。
「そうね…。戻らないとだめだよね。」
「俺はいいけどさ、やっぱ迷ってこっちに居つくってまずいだろ。」
オボン過ぎまでに戻らないと迷って居着く?
バーナビーは行間を読むどころか額面通りにさえ受け取れない会話に
眩暈のする思いがした。
<…だめだ。文化的背景が全く分からないと話にならない。>
日系人同士だとここまで言葉が曖昧なものなのか。
<もうすこし泳がせたら推測できるだろうか?>
バーナビーは『帰らないといけない』というところにだけリアクションすることにした。
頑是ない子供のような表情を作り、やがてしょんぼりと俯いて虎徹の肩に頭を預ける。
そしてそれは正解だったようで…。
「長い間逢いに行けなくて、本当にごめんな。」
虎徹は心の底から悔やむような声で言った。
「お仕事ですもの、仕方ないわ。」
外してはいないはずだとバーナビーはそっと目の端で虎徹の様子を窺う。
虎徹はバーナビーの右手をぎゅっと握った。
「あったかい。なんか不思議だな。もっと存在感ないのかと思ってた。」
<またわけのわからないことを言い出した!!>
困惑するバーナビーをよそに虎徹は自嘲のような乾いた笑いを浮かべた。
「でも、俺ってダメな旦那だな。お前がこっちに来たのって寂しかったからだろ?」
「まあ、ちょっと…ね。」
バーナビーは前後の文脈がつかめないまま、虎徹に好きなように言わせた。
ぼろが出ないよう、虎徹の問いかけには肯定で話を進めなければ。
「俺さ、お前に報告したいことがあったんだ。もしかしてお前もあっちで見てたのかな。」
<オリエンタルからどうやって何を見ると…。>
『友恵』が黙りこくったのを彼女の怒りと感じたのか、
虎徹はそれ以上話すのをためらうような雰囲気を醸し出しはじめた。
「報告って、なあに?」
虎徹は一瞬ためらったが、真面目な面持ちで『友恵』に正面から向かい合った。
「友恵…俺さ、好きな人が出来たんだ。」
その言葉にバーナビーは二の句が継げなかった。
今、この人は何と言った!?
驚愕するバーナビーをよそに虎徹は淡々と話しはじめた。
お前が死んで6年間、俺の心はお前と楓だけのものだった。
でも、今の職場で心から愛せる人に出逢ったんだ。
それがさ、自分でも驚くんだけど一回り以上も年下の若い男の子。
バーナビーっていうんだ。
俺はバニーって呼んでるんだけどさ。
最初は反りが合わなくて苦労したんだけど、
だんだんあいつのこと知るうちに気になるようになって。
ほんといい奴なんだよ。
小さい時にご両親亡くして、すげえ苦労したのにすれてなくて。
根はまっすぐで、いいとこ育ち特有のちょっとずれてるとこもあったりして。
真面目で頑張り屋で、俺のダメなとこ叱ってもくれる。
でも、寂しがりやでちょっと甘えたなとこもあるんだ。
しょうがねえよな。
たった4つで人に甘えられなくなっちまったんだから。
なんかさ、あいつに甘えられるの、すげえ嬉しいんだ俺。
それで一年くらい前から、ちゃんと付き合ってる。
でも、俺の指輪のせいであいつに哀しい思いさせてるとこもあってさ。
俺もこれは外せないし、正直あいつをこのままこんなオッサンに
つき合わせてダメにしていいのかって迷いもあった。
でもどうしてもあいつが好きだから、やっぱ別れるなんて無理だ。
それならちゃんとけじめつけなきゃって思うんだ。
それで、これからその先に行く前にお前にちゃんと報告したかったんだ。
俺の心の中には今もちゃんとお前の居場所があるから。
そこは、これからもずっと変わらない。
もちろん楓の事だって同じだ。
でもさ、そのうえでお前に許して欲しかったんだ。
俺がバニーともう一度新しい人生を歩くことを。
虎徹の話にバーナビーは一瞬止まりかけた思考を必死でフル回転した。
途中、本人涙ものの虎徹の真意が聞けたのに、
予想外のトンデモ展開にバーナビーの心がそっちへついていけない。
<つまり、虎徹さんの話を要約すると…。>
お前が死んで6年…そう言ったか!?
虎徹さんはずっと僕を「死んだ」友恵さんだと思っていた!?
そういえば日系はこの時期に死者を弔う儀式をすると聞いたような…。
つまり、虎徹さんが田舎に帰れずその儀式をできないから
奥さんがあの世から逢いに来たって、そういう話なのか!?
だから会社やトランスポーターに僕…友恵さんが居ても
虎徹さんの中では違和感がなかったんだ。
幽霊だと思ってるから。
でも最初にずっと一緒にいようとか、バーナビーって誰とか言ってたのはなんだ…?
精神操作系の能力にかかると一時的に認知が混乱するのか?
まあ今は落ち着いているようだから、そこは放っておいていいか。
…問題は。
亡くなった奥さんに、虎徹さんが僕と人生を共にすることを許して欲しい。
それが、虎徹さんの『願い』だということか。
じゃあ僕が『許す』とさえ言えば、このNEXT能力は消滅する!?
友恵さんの思いを…答えを…僕が?
あまりの話に呆然とするバーナビーに虎徹は頭を下げた。
「どうか、俺が二つ目の結婚指輪をつけることを許して欲しい。」
言えるわけがない、許すなどと。
バーナビーの眦から涙が溢れた。
「…てください。」
「友恵?」
掠れたバーナビーの声に虎徹がおそるおそる聞き返した。
「虎徹さん!ちゃんと眼を見開いて!今ここにいるのは誰かよく見てください!!」
悲痛な声でバーナビーは叫んだ。
貴方はさっきから誰に話しているんですか!!
ここにいるのは本当に友恵さんですか!
そんな大事な話なのに、貴方は誰も見ていない!!
友恵さんをないがしろにするような今の貴方にはもう耐えられない!!
僕はそんな大事な話に、友恵さんとして勝手に返事なんてできない!!
「友恵、お前何言って…。」
困惑する虎徹の襟元をバーナビーは両手で掴んだ。
「お願いだから!眼を覚ましてください虎徹さん!!」
眦から溢れ流れ落ちた涙が氷の指輪にぽたりと滴る。
その時…。
パン!と微かな音を立てて指輪が砕け散った。
「痛っ!!」
四散した氷の破片が頬を微かに切る痛みに虎徹は顔を顰め、
頬に滲む血を手の甲で拭った。
「あっ!大丈夫ですか虎徹さん、今消毒を…。」
虎徹の怪我にバーナビーがまだ潤む目を拭い、そっと傷口近くに手を触れた。
その温もりに虎徹は一度深く瞬きし、間近にいるバーナビーをじっと見た。
「虎徹…さん?」
「あれ…バニー?俺今まで一体…。いつのまに家に帰ってきたんだろ。」
虎徹は驚いたように辺りを見回した。
「アントニオと飲んでたとこまでは覚えてるんだけど…。」
虎徹の様子にバーナビーはじっと目を凝らした。
「虎徹さん、僕が誰だか分りますか?」
その問いになんだそれと虎徹は笑った。
「そこまで酔ってねえよ。バニーちゃん。」
その言葉にバーナビーの身体からがくりと力が抜けた。
倒れるんじゃないかと虎徹が慌てて手を伸ばす。
「お、おいバニー!?」
崩れるように虎徹に胸に縋りつき、
バーナビーは泣いているのか笑っているのか分からないような声をあげた。
「よかった…。虎徹さんが…、よかった…!!」
ぐずぐずと鼻声で言い、バーナビーは虎徹にしがみついてしゃくりあげた。
「あー。俺また意識飛んでたみたいだな。あのさ、なんか迷惑かけた?」
なんか知らねえけど最近多いんだよと困り果てた声で虎徹は言った。
「バニー、俺がなんかしたから泣いてるのか?だったらその…ごめんな。」
「…いいんです。もう、いいんです…。」
バーナビーは虎徹にきつく抱きついてそれ以上何も言わなかった。
どうもここ数日の記憶が曖昧なんだけどなあ。
俺、絶対何かやらかしてるよなあこれ。
虎徹は何が何だか分からないまま、それでもバーナビーを優しく抱きしめた。
ずっと一緒にいたはずなのに、なぜかずいぶん久しぶりな気がする。
虎徹はバーナビーの背をゆっくりと撫で、その首筋に頬を寄せた。
二日後、虎徹はシュテルンビルト中央駅にいた。
「悪いな、明日の夜には戻るからそれまで頼むわ。」
長距離列車の窓越しにバーナビーにそう言う虎徹は晴れ晴れとした顔をしていた。
昨日ロイズに有給の申請をしたら渋い顔をされたのに、
亡妻の法要くらいする権利はあるでしょうと援護したのはバーナビーだった。
ロイズは意外そうな顔をしたが、それなら私用なんて言わず
最初からそう言いなさいよと快諾してくれた。
「バニーのおかげで諦めてた墓参りに行けるよ。ありがとうな。」
その言葉にバーナビーはいいえと微笑んだ。
「こちらの事は気にしないで、ご家族とゆっくりしてきてください。」
そのどこか嬉しそうな笑顔に虎徹は心が満たされる思いがした。
「あのさバニー、明日の夜空けといてくれ。大事な話がある」
そう言った時発車のベルがけたたましく鳴った。
「え、今なんて!?」
聞き返したバーナビーの前でガタンと列車が揺れた。
「明日!俺はお前に…!!」
虎徹の言葉を攫うように列車がホームから走り出していく。
「だっ!とにかく明日の夜空けといて…!!」
「いってらっしゃい。」
バーナビーは列車に軽く左手を振り、ふとその薬指を見た。
「悪くないな、これ。」
楓の忘れものだというピンクの兎柄の絆創膏。
昨夜バーナビーの薬指の付け根に凍傷の傷跡を見た虎徹が
不器用な手つきで貼ってくれたものだった。
「そういえば、あの氷の指輪…。いや…なんでもない。」
何か聞こうとした虎徹は凍傷の手当てをして、
バーナビーの左手をそっと両手で包みこんだ。
「この指はとりあえず仮予約ってことで。」
そう言って虎徹は悪戯っぽい笑いを浮かべた。
不思議なもので、ただの樹脂の環がこんなにも温かく感じる。
「独りよがりの冷たい指輪はもう終わりだ。」
そう呟いて嬉しそうに笑い、バーナビーはカリーナにメールを打った。
To カリーナ
Sub 一件落着
例の件が無事に解決しました。
トレセンにお約束のケーキを持っていきますので皆で食べましょう。
送信するとほどなくバーナビーの携帯に着信を告げるメロディが流れた。
さすがに女子高生はレスが早いなと思いながら受信フォルダを開けると
そこに表示されていたのは虎徹からのメールだった。
From 虎徹さん
Sub 言い忘れた。
愛してる。
たった一行だけのぶっきらぼうな文面に、
真っ赤になりながらこれを送信した彼の顔を思い浮かべる。
「そんなの僕もですよ。」
でも振り回されたお返しに、このメールのレスはもう少し後にしよう。
明日の夜までほっといても良いかな。
バーナビーは心底嬉しそうに笑い、駅のホームを後にした。
終り