矜持
「そういった契約のお話なら正式に社を通してください。…失礼します。」
バーナビーは震える声を何とか抑え、儀礼的に一礼するなり踵を返した。
下心にだらしない顔をしていた初老の男がちっと舌打ちする。
「くそ忌々しいガキが!ちょっと綺麗な顔だと思って何様のつもりだ!!」
どすどすと短い脚を踏み鳴らし、男は言葉を荒げた。
「この俺を誰だと思ってるんだ!犯罪者の小姓のくせに!!」
そこから少し離れた場所で一部始終を見ていた細身の男が
その精悍な顔を嫌悪に歪めたのに気付きもせず、彼の真横を通り過ぎた。
「その身体に月百万出そうというのに。いまや二軍の分際で…。」
ヒーロー業界でも悪名高い衆道家スポンサー様は
よもや二部リーグ在籍の獲物に逃げられると思ってはいなかった。
その高いプライドを傷つけられ、憤慨するあまり彼は気付かなかった。
兎を仕留め損ねた狐の後ろで、怒れる虎が牙を剥いていることに。
「僕は…あの人に護られていたんだ…。」
バーナビーはパーティ会場のバンケットルームを抜け出し、
夜風の吹くテラスに身を預けて眼下の街並みをぼんやりと眺めた。
「マーべリック…さん…。」
一部リーグにいた頃、バーナビーのスポンサーはマーべリックが厳選していた。
パーティで出資者の娘やら姪だという女性に挨拶することはあっても、
さっきのような下品極まりない取引を持ちかけられたことはなかった。
そんなことをすればマーべリックの権力で社会的に抹殺された。
「貴方は…僕を…。」
あの男はバーナビーを利用していた。
だが、不要な危険からは徹底的に守ってもいたのだ。
「僕は、本当に世間知らずのお人形だったんだな…。」
バーナビーは自己嫌悪に重い溜め息をついた。
ずっと独りで生きてきた気になっていたのが今はただ恥ずかしい。
<虎徹さんや、他の皆はこんな不愉快なことを自分で対処しているんだ。>
さすがに未成年の女の子たちは会社が守るにしても、
それが社会で生きていくということだったのだ。
バーナビーはふと、自分の対応は会社的に正しかったのか不安になった。
「これで…よかったのかな…。」
「あれでいいんだよ。」
ふいに聞こえた声にバーナビーはハッと振り返った。
バンケットルームの眩い光を逆光に、
相棒が優しく笑いながら歩み寄ってくる。
「虎徹さん…。見てたんですね…。」
バーナビーは気まずそうに笑い返した。
「ほら、これ飲め。ちょっとは落ち着くから。」
虎徹はパーティ会場の食器には似つかわしくない
厚手のカップをバーナビーに手渡した。
「ありがとうございます。」
ふわりと漂う花のような甘い香りに
バーナビーは硬くなっていた表情を和らげた。
「…ハーブティ?どうしてこんな…。」
「給仕の兄ちゃんに無理言って淹れてもらった。」
バーナビーは一口それを飲んで、漸く安堵するような息を吐いた。
「…美味しい…。」
「災難だったな。」
労るような虎徹の声音にバーナビーはさっきの屈辱的な取引を思い出し、
羞恥と怒りで頬を紅く染めた。
「大丈夫か?あんなこと言われたの初めてだったんだろ。」
敢えて顔を見ずただ髪を撫でる虎徹の仕草に、
バーナビーは俯いて肩を震わせた。
「よく我慢した。俺なんか初めてマクラ持ちかけられた時殴っちまったもん。」
虎徹はもう十年以上前だけどなと言って笑った。
「虎徹さんも…そんな目に…?」
バーナビーは意外そうに虎徹を見つめた。
「あのなバニーちゃん、俺にも若い時ってあったのよ?」
虎徹が不満げに言うとバーナビーは苦笑して首を横に振った。
そうじゃなくて、虎徹さんそういうの受け付けなさそうだから。
ヒーローとしての矜持って言うか、そういう芯がちゃんとあるから。
だからスポンサーがそんなこと言いだす隙がなさそうだと思って。
僕みたいな、合理不合理だけでしか考えられなくて、
逆に「仕事だから仕方ない」って思ったら
大抵の仕事引き受けちゃうようなタイプなら
狙われるのも仕方ないですけど…。
虎徹はそれを聞いて苦笑した。
「まあ、確かにあのグラビアは酷かったよな。」
あの時は仇討ちが済んでハイになっていたとはいえ、
かなりギリギリの脱ぎっぷりだった。
もっともあれは社がOKした系列会社の媒体だったから
まともな仕事の範疇ではあったが。
「お前は良くも悪くも仕事選ばねえからなあ。」
「だって、虎徹さん前に『仕事は仕事』って言いましたよね。」
困惑顔のバーナビーに虎徹はゲッと息を呑んだ。
「おま…。あれはヒーローとしての任務だったろうが。他は選べって事!」
この生真面目坊やにおかしなこと言うと
どう解釈されるか分からないと虎徹は頭を抱えた。
でも分からせないといけない。
虎徹はふと真面目な、どこか寂しそうな顔になり遠くを見つめた。
「俺がデビューしたての頃さ、酷い目に遭った同期がいたんだ。」
そいつさ、能力が援護特化型だったんだ。
そうだな、折紙みたいな感じかな。
だからなかなかスポンサーつかなくてな。
あの頃は今みたいに、皆が大企業所属ってわけじゃなかったからな。
はっきり言わなかったけど、ヒーロー業だけでは食えなくてさ。
AVとかアングラ的な仕事もせざるをえなかったみたいでな。
で…結局ヒーローとしての矜持と
人に言えない仕事で糊口をしのがざるを
得ない現実に折り合いつかなくてな。
とうとう心を病んだんだよ。
あいつもお前と同じで…綺麗ですごく真面目な奴だった。
バーナビーは思いがけない虎徹の昔話に言葉を失った。
「お前がそうなると思ってるわけじゃないけど、心配でな。」
虎徹はバーナビーの手から空になったカップを取り上げ傍らに置くと
包み込むように抱きしめた。
「もうこれ以上…お前に苦しんでほしくねえんだ。」
アポロンメディアに籍を置く限り、
生きるために苦界に身を堕とす必要はない。
だが仕事のため会社のためと枕営業を甘受するのは苦界堕ちと同じだ。
かつての友と同じ過ちを辿らせはしない。
虎徹はバーナビーを抱く腕に力を込めた。
「忘れんなよ。お前を犠牲にして喜ぶ奴なんて誰一人いないんだ。」
バーナビーはそれを聞いて心が温かくなった。
「大丈夫です。虎徹さんやロイズさんを悲しませるような真似はしません。」
確かに、一部よりはスポンサー確保は大変ですけど。
でもそれで身売りみたいなことをしたら
ロイズさんや斎藤さん、死んだ両親…沢山の人を悲しませることになる。
それに…。
バーナビーは虎徹の右手を自分の両手で包みこんだ。
「僕のために、大切な拳を傷つけてくれた貴方を裏切ることなんてできない。」
そう言ってバーナビーは虎徹の指の付け根に出来た
真新しい擦り傷にそっとキスした。
「なんだ、ばれてたのか…。」
虎徹は照れ臭そうに笑った。
「直接殴ってはいないんでしょう。壁ですか?」
「さすが、お見通しだな。」
バーナビーは柔らかく笑った。
「ワイルドタイガーの矜持にかけて、一般市民を殴るはずがありませんから。」
「虎徹としては半殺しにでもしたかったけどな。」
虎徹は悔しそうに唇の端を噛んだ。
<犯罪者の小姓>という事実無根の侮蔑を思い出すだけで腸が煮えくりかえる。
「貴方の相棒としての矜持にかけて、自分を安売りなんてしませんよ。」
だいたい…とバーナビーは不満げに口を尖らせた。
「月100万って、日割にしたら3万とちょっとじゃないですか!」
ポカンとした虎徹にバーナビーは怒り心頭まくしたてる。
買ったことないけど、その辺に立ってる娼婦の方でも
相場はそんなものなんでしょう!?
この僕がそんな場末の商売女と同じ値段なんてありえない!!
人を見下すにもほどがある!!
あんな狸爺、1000万貰ったってごめんですけどね!!
一気にそこまで言ってぜえぜえと息を切らすバーナビーに虎徹は噴きだした。
「…っ…ははは!!バニー、おまえ日割って…。」
何処の暇人が30日連続で通ってくるもんか。
てか、何その妙に細かい計算…。
完全にツボに入った虎徹にバーナビーはむうとむくれる。
「そんなに笑うことないじゃないですか。」
「いや、うん。そうだな。失礼にもほどがあるよな。」
月100万を端金のように言い放ったバーナビーがある意味頼もしい。
こいつほど金銭感覚が超越していたら、
つまらない身売りのような仕事は受けるはずがない。
虎徹は安心してバーナビーを抱く腕を離した。
その代わりに、冷え切った白い手を握る。
「帰ろう。俺もすっかり冷えちまった。」
虎徹はすっかり酔いの醒めた頭を振り、肌寒さに腕を擦った。
「じゃあうちで呑みなおしましょう。なんなら…。」
バーナビーは虎徹の耳元で囁いた。
「貴方になら、この身体も…。」
そう言って嫣然と笑う兎の首筋に、虎は微かに歯を立てた。
終り