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見えない刃

 

…まったくあの女…。なんて捨て台詞残してくれたんだか…。

俺は傍にあったパイプ椅子に腰掛け、目の前の相棒に目を遣った。

簡素な寝台に横たわる白い肌は、血の気を失い青ざめて見える。

昨夜、ろくに眠れなかったんだろうなあ、こいつ…。

壊れるかもしれないと思って眼鏡をそっとはずすと、その下のクマが目に付いた。

酷でえもんだ、たった一日でこんなにやつれて。

無理もないか。

20年もの歳月をかけた仇打ちが空振りと聞かされればな…。

出会ったばかりの頃と比べて、最近のバニーの言葉や表情を見ていれば、

今までどれほどに無理をして生きてきたのかは容易に解る。

復讐だけがこいつの生きる糧、生きる理由そのすべてだったんだ。

それが…必死の思いで倒した仇敵が…真犯人ではなかったとは…。

 

「僕は一生過去に苦しめられながら生きていくんだ!!

少し…いや、かなり情緒不安定になったかと思うと突然倒れたものだから、

俺は慌ててバニーを医務室に運びこんだ。

意識のないバニーに驚いた救護係が救急車を呼びそうになるのを、

単なる寝不足だと誤魔化して追い出し、俺は大きなため息をついた。

「クリームさんよぉ…。あんたの一撃、致命傷ものだぜ…。」

まるで呪いの言霊だな…。

あの女、さぞかし満足だろうな。

恋人の『仇』を奈落に引きずり込んだんだから。

 

昨日の病院での出来事がまた脳裏に蘇る。

ジェイクの死は、最終的には事故だった。

しかし、クリームはそうは理解しなかった。

セブンマッチでジェイクに勝利しただけに過ぎないバニーを、

愛する者を殺めた殺人者と認識し、こいつに激しい憎しみをぶつけた。

「貴方の事件はまだ終わっていない。一生過去に苦しめられるがいいわ!!

そう叫ぶクリームの憎々しげな眼は、バニーへの復讐心で滾っていた。

冥土への道連れにするかのような、最期の、そして痛烈な呪詛。

そしてその言葉の刃は、狙い違わずバニーの心を打ち砕いた。

 

もともと、バニーはメンタル面に弱いところがあった。

それが病院での一件の後司法局で見た、クリームの証言を裏付けるような、

ジェイクの揺るぎないアリバイを証明するあの映像。

あれを見た後、明らかにバニーの憔悴が酷くなった。

俺は正直、あんなもの見なければよかったと後悔している。

 

「知らぬが仏…か…。」

バニーをここまで追い詰めたのは、本当にクリームだけだろうか…。

俺は自分も過ちを犯したのではないかと不安になってきた。

クリームの言葉を頑迷に拒絶したバニーに、決定的な映像資料を突き付けたのは

まぎれもなく俺自身だ。

 

バニーの言葉を全肯定して、『犯人はジェイク』で終わらせとけば…。

俺がバニーの記憶とクリームの証言の矛盾を明らかにしようとしなければ、

こいつ自身がそれ以上過去の事件を追求することはなかっただろう。

バニーは当初、クリームの言葉を死に際の嫌がらせ程度にしか捉えていなかった。

それを、良かれと思ってしたこととはいえ、無用にジェイクの無実を証明してしまった。

全てが振り出しに戻ってしまった…。

手がかりが何もなくなってしまった今、21年も前の殺人事件を解明するなど、

到底できることではないだろう。

自分のしたことは…バニーの20年を無に帰す行為だったのではないだろうか…。

 

「やっと、終わったと思ったのにな…。」

俺は未だ目を覚ます気配のないバニーの頭をそっと撫でた。

 

やっと、笑えるようになったんだ…。

やっと、前を向いて歩けるようになったんだ…。

それがまだ終わっていないなんて…。

そんなの…あまりにも残酷すぎる。

 

この際、真犯人がジェイクじゃなくても別にいいんだよ…。

本当はあの男じゃなくても、あの男だと思えれば、仇は討ったのだと思えれば、

それでよかったんだ。

それは冤罪かもしれないが、ジェイクは無実の人間でもない。

危ういところだったけど、バニーだって結局あの男を私怨で殺しはしなかった。

客観的にみれば、バニーはヒーローとして凶悪犯を逮捕しただけだ。

だから…。

だから、こいつの中でだけは<犯人はジェイク>でよかったんだ。

「人には要らない真実だって…あるのかもしれないな…。」

 

けれど、バニーは真実の一端を知ってしまった。

こいつはもう一度闘えるだろうか、過去の呪縛と…。

また、以前のように人と距離を置き、独りで苦しみながら生きようとするのだろうか…。

俺は多分、そんなバニーをもう正視できない。

やっぱり、今こいつを一人にはできない。

 

その時、携帯が微かに振動した。

見ると実家からの着信履歴。

母ちゃんからの帰れコールだってことは出なくてもわかる。

楓のことはもちろん気に掛かるが、仕方ない。

楓には母ちゃんも兄貴もいる。

あの二人ならうまく楓を支えてくれる。

けど…こいつには誰もいないんだ…。

済まないけど、もう少しだけ時間をくれ。

今帰ったら、俺は一生後悔するから。

 

「…傍にいるから。ちょっとだけ待ってろ、相棒。」

俺は眠ったままのバニーにそう声をかけ、携帯を手にしたまま静かに医務室を出た。






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