想い出と約束
病室に近づくと扉の向こうから少女の姦しい声が聞こえた。
おおかた彼が何か無茶なことをして
年端もいかない愛娘に叱られたのだろう。
「やれやれ、無駄に元気そうだな。」
バーナビーは苦笑して病室のドアをノックした。
「虎徹さん、具合はどうですか?」
その声に少女の背中がぴくんと跳ね、凄い勢いで振り返った。
「あ、バーナビーさん!」
頬を染め嬉しそうに破顔する楓にバーナビーはにっこりと笑いかけた。
「こんにちは、楓ちゃん。」
バーナビーは楓に洋菓子の箱を渡した。
「これお見舞い。お父さんのお世話大変だね。」
楓はそうなのと苦笑いしてベッドの父親とバーナビーを交互に見た。
「私、何か飲むもの買ってくる。」
楓はベッドのサイドボードから父親の財布を勝手に取り出した。
「お父さん、お金持っていくよ!」
「あ、こら。了解取る前に持っていく奴があるか。」
一応は窘めたものの、娘の意図を察した虎徹はしょうがないなと笑った。
「子供のくせに変な気を回すようになって…。」
バーナビーは親子水入らずのところを邪魔したかと思い、
楓に申し訳ない気持ちになった。
「すみません、せっかく楓ちゃんと二人でいたのに。」
「バニー、お前も変な気回すなよ。来てくれてありがとうな。」
虎徹の言葉にバーナビーは困ったように笑った。
「お前はもう怪我はいいのか?」
虎徹はバーナビーの右腿を見て言った。
「ああ、脚の方はもう大丈夫です。ただ…。」
ふっとバーナビーの顔が辛そうに曇った。
「記憶…脳を長年にわたって弄られたので、精神科の通院がまだ…。」
虎徹はそれを聞いて痛ましげに顔を歪めた。
実の親のように敬愛し信じてきた人に裏切られ、
両親の仇打ちという自分のアイデンティティまでズタズタにされて…。
もともと心に脆いところのあった彼が今どんな気持ちなのか。
<脳の検査なんかより、メンタルのケアしてやってくれよ先生…。>
虎徹はどう声を掛けていいものか逡巡した。
「バニー…。辛い結末だったな…。」
20年もの間、彼が自分の人生のすべてを
投げうって探し求めた真実はあまりにも残酷すぎた。
「大丈夫…なわけないか。その、今も記憶が混濁してたりするのか?」
ジェイクが犯人じゃないと分かった時も、ひどく取り乱していた。
彼が今回の事で受けた心の傷はあの時の比ではないだろう。
虎徹は酷く痛む身体を起こすのがやっとで、
すぐ傍にいるのにバーナビーを抱きしめてやれない
わが身の不自由さが忌々しく思えた。
「その…苦しいだろうが、あまり一人で抱え込むなよ。」
懸命に言葉を選んで自分に寄り添おうとする虎徹の優しさが嬉しい。
彼がいてくれたから、自分は今まで壊れずにいられた。
バーナビーは虎徹を安心させたくて無理に笑顔を浮かべた。
「記憶の混濁はないんですが…何が正しい記憶なのか…。」
バーナビーの手がその膝の上で震えている。
「バニー…。」
「僕は今までどこで何をして生きてきたのか…それすらも…。」
声が掠れ、俯いた顔にかかる髪が微かに揺れる。
「バニー、まだ本調子じゃないんだ。そんなに自分を追い込むな。」
そう言って虎徹はバーナビーの方に身を乗り出した。
「僕は…。」
いっそう苦しげな声が絞り出された。
ヒーローになる前はアカデミーに在籍していました。
その前は大学で犯罪心理学や機械工学、薬理学と
ウロボロス追跡に使えそうなものは片っ端から学んで。
その前は全寮制のハイスクールに。
でもそのすべてをお膳立てしたのはあの男だった。
僕は最初からすべてをコントロールされていたんです。
今となっては自分の経歴すら本当かどうか分からない。
僕のすべては、最初から作られた紛いものの…。
「違う!!」
虎徹の叫びにバーナビーははっと顔をあげた。
「確かにお前の人生をコントロールしたのはあの男かもしれねえ。けど…。」
虎徹は真剣な目でバーナビーを見据えた。
ほかの楽しい事とかそういうの全部犠牲にして、
今まで必死でいろんなこと勉強してヒーローになった。
しかもお前はたった一年でKOHにまで上り詰めた。
何人もの人を救助して、何人もの犯罪者を逮捕してだ。
それはほかでもないお前自身の実績とその記憶だ。
それは俺がちゃんと隣で見てた。
お前の実力は本物だ。
お前は紛いものなんかじゃない!!
ただ…過去の事をよく覚えていないだけ、いや違う。
覚えてるのに、自信がなくなっちまってるだけだ。
お前は俺と一緒にこの二年近くシュテルンビルトを守ってきたんだ!
お前は幾つもの修羅場をくぐりぬけて、今確かにここに居るじゃねえか!!
だから…。
だから、自信を持て!バーナビーブルックスJr!!
バーナビーは虎徹の勢いに圧倒されたのか、
放心したように彼を見つめていた。
そしてふっと視線を逸らし、
揃えた膝の上で揺れる黒い指輪をぼんやりと見つめた。
「…虎徹さんと初めて出会ったのは…氷漬けの海の上?」
俯いたまま、バーナビーは弱い声で訊ねた。
「ああ、あんときはありがとうな。お前がいなかったら俺もう死んでたわ。」
そういえば、あの件について礼を言うのをずっと忘れていたと虎徹は頬を掻いた。
「初めて二人でグッドラックモードを決めたのは10月31日?」
顔をあげ、縋るような目のバーナビーに虎徹は苦笑した。
「そこは『僕の誕生日?』って聞けよ。サプライズしたろ。大失敗したけど。」
虎徹はベッドに手をついて端ににじり寄ると、
膝の上で固く握りしめられたバーナビーの手を包み込んだ。
虎徹の温かい手の中で、バーナビーの冷え切った手が力を失った。
「初めてお前んちに泊まったのは市長の息子を預かった時。」
「虎徹さんがチャーハンを作ってくれて…。」
「そうそう。ああ!初めてって話なら、俺はあれは外せねえな!」
「『虎徹さん』って呼んだ時…ですか?セブンマッチの後…。」
「そうそうそう!!覚えてんじゃねえか!!俺あの後…。」
「嬉しくて飲みに行った。」
「そうそう…って、それ言ったのはついこないだか。」
バーナビーは漸く安心したのか溜め息をついた。
「バニー?」
心配そうな虎徹にバーナビーは儚げな笑みを見せた。
「もう、2年以上前の事はいいんです。ただ…。」
うん?と首を傾げる虎徹にバーナビーは眦に涙を滲ませた。
「貴方との思い出まで、全部ウソだったらって…それが怖くて…。」
ウロボロスを追うために捧げた24歳までの人生。
それらは真偽がどうであれ、全てが無為となった。
それはもう、仕方のないことだと諦められる。
けれど、自分にとってかけがえのないこの2年足らずの時間は…。
虎徹と過ごしたその年月は自分の人生でたった一つの想い出のかたまり。
それが全て嘘だとしたら、今度こそ自分は壊れてしまう。
バーナビーはつかえる声で途切れ途切れにそう言った。
「大丈夫。それは本物だ、何一つ間違ってない。俺が保証する。」
虎徹はバーナビーの手を握って力強く言った。
「俺が同じ記憶を持ってるから、な?」
「よかった…。その想い出さえあれば、僕はまだ生きていける…。」
虎徹の手を握り返し、バーナビーがやっと笑った。
「生きていけるって…当たり前だろ!お前何言って…。」
そう言いかけて虎徹は息をのんだ。
バーナビーはこの上なく美しい涙を流し、この上なく美しく笑っていた。
貴方と駆け抜けた日々の想い出さえあれば、
どんなに遠い場所にいても、どんなに苦しくても生きていける。
貴方に笑われるような生き方をしたくない。
貴方を悲しませるような生き方もしたくない。
貴方がくれた想い出が僕に
立ち上がる力をくれるから…。
だから、やっと自分の脚で立って行ける。
それを聞いて虎徹はやっと気付いた。
ああ…そうか…。
「お前もここを離れるんだな。」
バーナビーはその言葉に頷いた。
「近日中に、精神科の通院と会社の退職手続きが終わったら。」
「そうか…。」
それもいいかもしれないと虎徹は思った。
今は悲劇のヒーローとして報道されているが、
人は飽きやすく時に生け贄を求める残酷な面もある。
遠からず、バーナビーをマーべリックの手駒と糾弾する連中が現れる。
虎徹はそれが何より心配だった。
「どこか当てはあるのか?」
「世界を見て回ろうと思っています。いままで籠の中の鳥だったので。」
虎徹はそれを聞いてやっと安心した。
「そうだな。行っていろんなものを見てこい。」
バーナビーは微笑んで頷いた。
「虎徹さん、最後の我儘…聞いてもらえますか?」
最後という言葉が胸に響く。
けれど虎徹は頷いた。
「なんだ?今の俺に出来ることなら何でも言えよ。」
「僕が旅に出る時、見送ってもらえますか?」
虎徹は頷いてバーナビーの手を両手で包んだ。
「そんなのお安い御用だ。飛行機が見えなくなるまで手を振ってやるよ。」
虎徹は笑ってバーナビーの髪を梳いた。
バニー。
何年かかってもいい。
必ず、お前自身の幸せを見つけ出せ。
そしていつか、胸を張ってここに帰って来い。
ここはお前の生まれ故郷なんだから。
その時はまた会おう。
俺、オリエンタルタウンでずっと待ってるからな。
バーナビーは嬉し涙を滲ませ頷いた。
「約束します。いつかまた必ず会いに帰ってきます。」
虎徹はバーナビーにちょいちょいと手招きした。
バーナビーがなんだろうと思いながらも椅子から腰を浮かせ
虎徹のベッドの方に身を寄せると、
虎徹はその柔らかい唇を掠めるようにキスした。
「俺も大事な想い出いっぱい貰っていくよ。ありがとなバニー。」
バーナビーは虎徹に抱きついてその肩に顔を埋めた。
終り