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「んっ…虎徹さんっ…。」
「バニー…可愛いよ…。」
優しい愛撫と甘い睦言に意識がふわふわと曖昧になる。
虎徹さんに深く穿たれた部分が熱くて気持ちいい。
このまま蕩けて一つになれたらいいのに。
虎徹さんの背に腕を回し、そんなことを思った時だった。
ひやり
…ああ、まただ。
熱で浮かされた心は時々冷や水を浴びせられる。
僕の肌に触れる小さな金属によって。
まるでそこに彼女の心が宿っているかのように。
<この人は私のものよ。とらないで。>
プラチナの塊がそう言って僕を激しく非難する。
ああ胸が痛い。
良心の呵責という比喩でなく、本当に締め付けられるみたいに。
ごめんなさい…。
僕は無意識に苦しそうな顔をしたようだった。
「どうした、バニー…。痛いか?」
そっと僕の頬を撫でる彼の左手はとても熱いのに、
それを上回る指輪の冷たさが僕の肌を刺す。
「大丈夫です…。続けて…?」
「無理すんなよ?痛かったら言えよな。」
僕は頷いてそっと彼の左手を握り、勝てるはずもないそれに必死で抗う。
この人は確かに貴方のものです。
愛を知らなかった可哀そうな同僚を憐れんでいるだけなんです。
愛は貴女だけのものだから…。
だから…もう少しだけ許してください。
この温かい憐憫に浸らせてください。
虎徹さんに抱かれながら僕は天国の細君に許しを乞う。
頬を伝う涙は官能か悔悟かあるいは自己憐憫か。
どれほど激しく突かれ、揺さぶられても一つになれない。
僕の身体は“愛の結晶”を宿すことすら叶わない。
それでも身体は浅ましく彼を求める。
今一瞬でもいい。
僕だけを見てくれるなら、身体なんて好きにしてくれていい。
ああ、もう…。
内から外から激しく攻められて昇り詰める。
「バニー…。俺の…っ!!」
「虎徹さん…好き…。」
中に全て放たれてかりそめのファーストプライオリティが終わる。
愛された充足感と首位陥落する欠落感の入り混じる奇妙な瞬間。
僕はセカンドプライオリティ。
決して虎徹さんの一番にはなりえない。
彼の一番は永久欠番だから、今の僕は繰り上げ一位みたいなものだ。
それで十分だ。
歪だと人は言うかもしれない。
でも僕はそれでいい。
虎徹さんは情事の時も左手の指輪を外さない。
どれくらい眠っただろうか。
僕は喉の渇きで目が覚めた。
手探りでサイドボードに置いたはずの眼鏡を探すと、先に携帯に手が当たった。
今何時だろうとそれを開くとまだ夜中の三時半を過ぎたところだった。
下に降りて水を飲んだらもうひと眠りしよう。
自分の家なら眼鏡なしでも台所で水を飲んでこれるけれど、
階段があるうえに散らかっているこの家でそれは危険だ。
バックライトで眼鏡を探そうとした時、
暗闇にチカッと何かが光った。
…またこれか。
眼鏡をかけて携帯をサイドボードに戻すと僕は、
右隣りで微かな鼾をかく虎徹さんの左手をそっと取った。
ぐっすりと眠っているようで、厚みのある彼の手はずっしりと重い。
節くれだった指、乾いた手の甲。
長年この拳でこの人はヒーローをしてきたんだ。
敬意をこめてその甲に口づける。
その反面、僕の眼は目の前にある白金から離せずにいた。
こんな小さな金属の塊がこんなにも僕を追い詰め苦しめる。
<これさえ…なければ…。>
何かに操られていたとしか思えない。
僕は気がつくと虎徹さんの左手の薬指の付け根を
自分の右手の親指と人差し指で摘まんでいた。
「…!!」
自分が無意識にしようとした事に気がついて寒気がした。
指輪は第二関節の手前で止まっている。
拳闘を常とする虎徹さんの指が指輪を購入した時よりごつくなったせいで
抜くのにコツがいるのかすんなりと外れなかったせいだ。
いや、すんなり抜けなかったおかげで僕は最悪の所業をせずに済んだ。
あるいは友恵さんの意思とも怒りともとれるけれど。
他人の結婚指輪を勝手に外そうとするなんて。
「なんてことを僕は…。」
震える手で指輪をその付け根まで押し戻した。
その時虎徹さんの手が僕の手を握ったような気がした。
気付かれたかと身体が竦む。
「…ん…。」
虎徹さんは僅かに唸っただけで寝がえりを打った。
背を向けて眠る彼がやけに遠く感じる。
僕は脱ぎ散らかした服を身に纏い、足音を殺して階下に降りた。
みっともない嗚咽を漏らさないよう、必死で口許を押さえて。
居間のソファに腰を下ろそうとして、そこにある写真に気がついた。
ウエディングドレス姿の彼女が、赤子を抱いた彼女が、
ここは私たちの家だと僕を責める。
聴いたこともないはずの彼女の声が聞こえる。
僕は夢遊病者のようにふらふらと立ち上がった。
アパートの外に出るとまだ冷たい風が体温を奪っていく。
僕はアパート前の階段にへたり込むように腰掛けた。
寒いし居た堪れないし、もう家に帰ってしまいたい。
ああ、だめだ。
玄関の鍵が開けっぱなしだからここから離れるわけにはいかない。
この辺りはブロンズにしては治安が良いけど、やはり不用心だ。
いくらそこの住人がヒーローだからって、それはやっていい事じゃない。
それにしてもほんと寒い。
せめて上着着てくればよかったな。
リビングならともかくロフトで脱いだから、あそこに取りに戻るのは気が進まない。
「何やってんだろ僕は…。」
情けなくて溜め息しか出ない。
虎徹さんが今も奥さんを大事に想ってるのは分かっていた。
それでもなお、僕は彼に愛されたいと分不相応な願いを抱いた。
虎徹さんは僕をとても大事にしてくれている。
こんな面倒くさい僕を愛していると言ってくれた。
硬く色気のないこの身体を綺麗だと言って優しく抱いてくれた。
叶うはずのない願いが叶えられたのに、僕は貪欲にもそれ以上を望んでいる。
虎徹さんの一番になりたいなんて、決して願ってはならないことなのに。
あまつさえ、眠っている彼の結婚指輪を抜き取ろうとするなんて。
彼の一番大切なものを尊重できないようなら隣にいる資格なんてない。
自分はこんなにも愚かで醜い人間だったのかと自分で自分が嫌になる。
不倫する独身女性ってこういう気持ちなのかな。
そんな関係、非生産的で不毛で何が楽しくてそんなことするんだろう。
そう思っていたのに気がつけば似たような立ち位置にいるなんて。
世界で一番愛する人の『世界で一番愛する人』になるのが
こんなに難しいことだなんて思わなかった。
二番で良い…二番で良いんだ…。
それ以上を望んだら二番ですら居られなくなるから…。
僕は俯いて顔を覆い、必死で自分にそう言い聞かせた。
「お兄さんどうしたの?彼氏と喧嘩でもしちゃったかなー?」
ふいに聞こえた下品な声に顔をあげると、
眼の前の歩道に痩せた男がニヤニヤして立っていた。
「貴方には関係ないでしょう。どうぞお構いなく。」
っていうかとっとと失せろチンピラ!!
イライラした僕は心の中で口汚く罵った。
だいたい普通だったら『彼女とケンカした』って言わないか?
彼氏ってとこは図星だけど、こういう奴に言われると心底腹が立つ。
「じろじろ見てたってなにも出ませんよ。」
さっさと消えろ、この下衆。
僕は今度は敢えて顔に出してそう言った。
「そうつれないこと言うなよ。」
男はふてぶてしく舌なめずりして僕に近づいてきた。
「俺が慰めてやるから一緒に行こうぜ?」
あまりにもバカバカしい台詞に僕はどっと脱力した。
僕を力でどうにかできるとでも思ってるのなら相当おめでたい奴だ。
「遠慮します。消えてください。」
僕は立ち上がり利き脚を僅かに後ろに下げた。
「おっと逃げんなよ?」
男が懐からバタフライナイフを出してちらつかせた。
やれやれ。
街灯が遠くて薄暗いからって、この僕が誰か気付かないなんて。
しょうがない、一発喰らわすか。
そこのゴミ置き場に捨てておけば酔っ払いにしか見えないだろう。
僕が身構えた瞬間、後ろのドアが開いた。
「おにーさん、死にたくなかったらやめときな。」
虎徹さんが欠伸を噛み殺しながら男にそう言った。
開けはなれた家の中の光が僕の姿を照らし出した。
「…げっ!!アンタまさか!!」
まずい!
虎徹さんの正体がばれたかと僕は肝を冷やした。
だが男はガタガタ震えながら僕の方を凝視している。
「そのまさかだよ。まあ、こいつに勝てると本気で思うなら俺はもう止めないけどさ。」
虎徹さんは犬でも追い払うように手を振った。
男はヒイともギャアともつかない無様な声をあげて走り去った。
「なんだあいつ。失礼な。」
人を化けものみたいにと憤る僕の後ろで、ハアと虎徹さんの溜め息が聞こえた。
「バニー、風邪引くぞ。中に入ろう。」
虎徹さんは僕に革のジャケットをはおらせ、家の中に誘導するように肩を抱いた。
優しくさりげなく、それでいて僕の退路を断つように。
「なんか、目が覚めちまったな。温かいものでも飲もうか。」
そう言ってふにゃりと優しく笑うから、
僕は帰るきっかけを完全に失ってしまった。
「眼が覚めたらお前いないし、心配したぞ?」
昼間には聞くことの少ない、低くて甘い声で囁くように彼は言った。
僕が黙って帰ろうとしたのに気づいたんだ。
たぶん、指輪を抜こうとした時に彼も目が覚めていたんだ。
知っていて、僕が出て行くのを見送ったんだ。
少し頭を冷やせば我にかえるだろうとでも思って。
僕が家の鍵を開けっぱなしで帰れる性格じゃないのもお見通しで。
…ずるい人…。
僕は潔く観念した。
「虎徹さん…。」
ん?と虎徹さんは優しい眼で僕を見た。
「…ごめんなさい。」
なにがなのかと聞かれたら僕は自分のしそうになった恥ずべきことを
白状しなくてはならない。
それでも僕は謝らずにはいられなかった。
軽蔑されるかもしれない。
…怖い…。
僕は俯いて唇を噛み、彼の返事を待った。
「バニー…。」
虎徹さんはぽんぽんと右手で僕の頭を撫で、左手で僕の左手を握った。
「あーあー、こんなに冷えちまって。」
そのままぎゅっと抱きしめられて、また僕はいたたまれない気持ちになる。
「虎徹さん…あの…。」
玄関のシューズボックスの上で友恵さんの写真が僕を見ている。
ごめんなさい…。
僕は二番で良いですから、どうかそれだけは許してください。
僕は虎徹さんの肩越しに友恵さんに謝罪した。
虎徹さんはそんな僕には気付きもしない。
右手で僕の背をしっかり抱き込み、僅かに高い僕の肩に自分の顎を引っかけた。
「温かいもの飲んでもう少し寝ようぜ。それでさ、昼になったら…。」
虎徹さんは僕の左手を自分の眼の前に持ってきた。
「ここに嵌める指輪買いたいんだけど、付き合ってくれる?」
彼はそう言って僕の薬指の付け根を自分の親指と人差し指で摘まんだ。
「俺のこれ、指が太くなって抜けねえから重ねづけになるけど…いいかな。」
少しばつが悪そうに虎徹さんが笑っている。
「虎徹さん…それって…。」
思いもよらない言葉に僕の理解が追いつかない。
そんなはずは…。
だって僕は貴方のプライオリティじゃない。
虎徹さんは真剣な顔で僕に言った。
「俺の一番大事な人って証を、ここにつけてほしい。」
ずっと堪えていたものが、後から後から溢れだした。
「僕も…貴方が一番…。」
それだけ言うのがやっとで、不器用な僕たちは
明け方の玄関先でいつまでもただ抱き合っていた。
終り