スコーンとマルゲリータ
その日、僕は久しぶりに馴染みのカフェを訪れた。
「いらっしゃいませ、お久しぶりですね。」
そう言ってマスターは微笑み、いつものでよろしいですかと訊ねる。
「嬉しいな、覚えていてくれたんですね。」
「すぐご用意いたします。少々お待ちください。」
僕は頷いていつもの席だったところに座り、通りの景色を眺めた。
ここは虎徹さんの住んでいたアパートから
ワンブロックほど離れたところにある古いカフェ。
オフの前日彼の家に泊まった時なんかに、遅い朝食をとりに時々訪れた。
オーダーはいつも同じ。
僕は紅茶とスコーン。
虎徹さんはブラックコーヒーとホットドッグ。
ブロンズステージの裏街にこんな雰囲気のカフェがあるのも意外だったけど、
この店で食事をしていてファンに騒がれたことは一度もなかった。
「ここは元ヒーローの店なんだよ。」
初めて僕をここに案内してくれた日。
虎徹さんはそう言ってカウンターの向こうでグラスを磨く
初老のマスターを穏やかな目で見た。
「あの人は俺の素性も知ってる。常連客もだいたい勘付いてる。」
それでも皆気付かないふりをして食事をし、少し会話を楽しんで静かに去っていく。
虎徹さんはここならお前でもゆっくり飯が食えるからと言って笑った。
「本当にいい店ですね。」
食事中に騒がれるのに内心は辟易していた僕に虎徹さんは嬉しそうに頷いた。
「お前をずっとここに連れてきたかったんだ。」
夜明けのモーニングコーヒーにはちょっと遅すぎるけどな。
そう言われて僕は少し気恥ずかしくなった。
そしてそれ以上に、人生で一番幸せな日だと思った。
それは初めて彼の家で身体を重ねあった日の朝だった。
あれから二年以上の時が過ぎた。
マスターは気づいているだろう。
今日、僕が一人でここに来た意味に。
珍しいですねとも言わず、いつもと変わらない心地いい接客。
穏やかな笑みでそっと紅茶とスコーンをサーブし
『ごゆっくり』とカウンターに戻った彼を目の端で見た。
ふと皿を見るといつもと違うところが一つだけあった。
さりげない気遣いが冷えた心に沁みわたる。
「ありがとうマスター。」
僕は一つ余分に載せられたスコーンを指しお礼を言った。
けれど、あの事を考えるとすぐにまた心が冷えてしまうのも事実で。
「どうして…。」
僕はぼんやりと通りの向こうを眺めた。
僕は先週、会社命令で虎徹さんと仕事上のパートナーを解消させられた。
だからといって私生活のパートナーシップまで解消させられる謂われはない。
けれどここ数日、虎徹さんからの連絡は途絶えがちだ。
彼の事だから、きっと何かきちんとした理由はあるんだと思う。
付き合いを有耶無耶に誤魔化そうとするような卑怯な人じゃない。
きっと何か彼なりの考えとか事情はあるはずだ。
ただ、彼はそれを口にするのが下手な人なのだ。
彼がそれについて真面目に考えていればいるほど。
減退をギリギリまで隠していたあの時のように。
そういう時に言葉で追い詰めてもヘタな言い訳をして
のらりくらりと身をかわすんだ、あの人は。
それもあの事件の時で学習済みだ。
だから、今は待たなくてはいけない時期なんだと思う。
虎徹さんの心がどこかしらに落ち着くまでは。
それは分かっている。
彼の事を信じたい。
でも僕だって不安にはなる。
仕事の事も、虎徹さんとのこれからがどうなるのかも。
無性に彼に会いたくて何度もメールをしたけれど
返事は二回に一回あるかないか。
それで僕はオフの日朝早くからこのカフェに来た。
偶然を装うにはわざとらしいかもしれない。
でも、ばったり出会える可能性があるのはここしかなかった。
自宅を突撃する勇気はまだない。
無理をすれば決定的な言葉を聞かされそうで、それが怖かった。
「…ハア…。」
僕は温くなりはじめた紅茶を啜って重い溜め息をついた。
「マスター、最近ここに彼は来ましたか?」
ふとそう訊ねるとマスターは少し考えるような目をして
やがて穏やかに頷いた。
「たしか先週の土曜日が最後でしたね。」
それは辞令が出た次の日だ。
「なにか、お仕事上の処遇で落ち込んでおられました。」
…やっぱり…。
あの辞令に虎徹さんが傷つかないはずがない。
ヒーローという仕事に誇りを持ち、二部での活動も精力的にこなしていた。
けれど僕ひとりが昇格させられ、別の相棒をあてがわれるなんて。
決して愉快な話ではないはずだ。
僕自身、手放しでは喜べなかった。
「僕は虎徹さんと…。」
ロイズさんにそう言いかけた僕の口を彼は塞いだ。
「バニー、俺たちは会社員でもあるんだ。そういう我儘はよくねえぞ。」
厳しい顔で僕を諭した虎徹さんに、ロイズさんの方が驚いていた。
「虎徹君には申し訳ないけど…そういうことだから。」
私もT&Bの解散は残念だよと、そう言ったロイズさんに
虎徹さんはお世話になりましたと頭を下げた。
僕を主軸に据えながら、僕を置き去りにして新事業部が勝手に廻っていく。
虎徹さんとだって元々は会社に強引に組まされた相棒だった。
仕事だからと必死で割り切って組んだ関係だったのに、
今はこんなにも割り切れない必死な思いが募る。
虎徹さんはそうじゃなかったのかな。
仕事だから組んで、仕事がなくなったから離れた?
そんなわけないと思いながらも、不安が雪だるま式に膨れ上がっていく。
僕はただ虎徹さんと一緒にいたかった。
それこそ会社命令…というかマーべリックの思惑で一緒になった、
ただそれだけの出会いだった。
それが、今の僕にとっては彼と出逢ってからの人生だけが本物といえるものだった。
虎徹さんにとってはどうだろう。
彼の人生は辛いこともあったけれど、いつもご家族や仲間に支えられていた。
僕ひとりになんて執着する必要もない。
僕は長い人生のほんのひと時を共にしただけの元同僚なんだろうか。
…だめだな。
ネガティブになりすぎて虎徹さんを信じられないなんて。
彼にとってもあの出会いは特別だったと思う。
ずっと後になって虎徹さんは言った。
「あのイボ爺は今でも許せないけど、お前と出逢わせてくれたことには感謝する。」と。
彼にとって僕がどれだけ大切なのかは分からない。
そんなこと彼にしか分かることじゃない。
だからといって不安のあまり自分を貶めちゃいけない。
…自分に言い聞かせている時点で、自信がない証拠だけど。
虎徹さんはあれで僕以上に寂しがり屋だ。
すぐにボディタッチするし、構われたがりなとこもある。
酔うとすぐに誰かに電話するし。
いつだったかアントニオさんが言っていた。
あの寂しい酔っ払いの相手をするのは俺の役目だったが、
お前と出逢ってからはお役御免になったようだ。
あいつはお前と出逢ってから生き返ったみたいな目になった。
面倒なおっさんだろうが、これからも虎徹の相手をしてやってくれ…と。
その虎徹さんからたった数日連絡が途絶えただけでこんなに不安になる。
あれほど毎日うるさいほどにメールや電話してきていたのに。
昨日、つい虎徹さんに『会いたいです』とメールしてしまった。
そのレスはまだない。
追い詰めちゃいけないという思いと、返事がほしいという思い。
どう折り合いをつけていいのか分からない。
僕はふと彼の家のある方角を眺めた。
ここなら偶然会える気がして、こんな自宅から遠いカフェに来た。
けれど、虎徹さんが僕に会いたくないのなら、この通りには近寄らないだろう。
寂しいけれど、それが答えなのかもしれない。
急に空しくなった僕は席を立ちマスターに料金を支払った。
「貴方がここにいらしたことは…。」
マスターの気遣わしげな視線に僕は首を横に振った。
「彼がここに来ても内緒にしていてください。」
マスターは穏やかな目で頷いた。
この店もいつか彼との思い出の場所になってしまうんだろうか。
僕はそんな侘しい気持ちで店を出た。
店の前に停めていた車に乗り込みエンジンをかける。
今日はオフだけど真っ直ぐ帰る気にもなれない。
どこかを少し流してから帰ろうかな。
どこにしよう。
あのマリーナにしようか、それともあのスケート場のある公園か。
早くも虎徹さんとの思い出めぐりをしようとしていると気がついて、
自分のせっかちさと悲観的過ぎる思考に苦笑する。
諦めちゃいけない。
けれど彼との思い出を大事に振り返るのは悪くないはずだ。
僕は行く先も決めないままゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
その時僕はまだ知らなかった。
あの後すぐ、カフェに彼が訪れたことを。
彼もまたいつものコーヒーとホットドッグを前に、
長い長い溜め息をついていたことを。
それを本来は口の堅いマスターから聞いたのはつい最近。
「内緒ですよ?」と悪戯っぽく笑って彼はそっと教えてくれた。
そう、あれから数カ月が過ぎた。
あの日、僕たちはお互いはぐれていく心を持て余し暗い闇を彷徨っていた。
すぐ隣にお互いが居るのも気づかずに。
ぬるくなっていく紅茶、香りを失っていくコーヒー。
長い溜め息、零れ落ちる涙。
お互いに、一度は失うことを覚悟した。
けれど、僕たちは諦めが悪いところが似ていた。
必死であがいて手を伸ばして。
闇を弄る不器用な手と手が互いの温もりを掴みとるのは、その次の日の話。
あの日のスコーンの味は思い出せない。
けれど、その次の日のマルゲリータの味は一生忘れない。
涙で少し塩気が増してしまったあのピザの味は。
「久しぶりマスター。いつもの奴頼むよ。」
今日、虎徹さんと二人で訪れたあのカフェ。
「いらっしゃいませ。」
マスターの優しい微笑みは今も変わらない。
いろいろあったけれど、僕たちはまたここで食事を共にするようになった。
ただ一つだけ変わったことは…。
一時間ほど前に二人で市役所に行き、
僕の姓がブルックスから鏑木に変わったことだ。
終り