ストラグル
「う・・・ああ・・・。」
夜明けまだ遠い午前三時。
耳元で聞こえる掠れた声に俺は目が覚めた。
「どした、バニー。」
すぐ傍で眠っているバニーは何かを拒絶するかのように首を横に振っていた。
「いや・・・だ・・・。」
ああ、まただ。
昔から何度も繰り返し見る悪夢。
一時はかなり減ってたけど、ここんとこまた増えてきてるみたいだ。
しょうがねえ、いっぺん起こすか。
俺はまだ眠い目を擦りサイドボードに腕を伸ばした。
根が神経質なバニーは明るい場所で眠るのが苦手だ。
だからこういう時はそれを逆手にとってサイドボードのスタンドライトを点ける。
光に反応したのかバニーは嫌そうに顔を背けた。
それでも悪夢から覚める気配はまだない。
「こて・・・さ・・・。」
もがくように伸ばされた手を握り、そっと髪を撫でる。
俺の体温が伝わったのか、バニーの苦しそうな表情が一瞬和らいだ。
「バニー、大丈夫だよ。」
出来るだけ静かに抑えた声で、そっとバニーの頬を撫でる。
大きな声で呼びかけたり激しく揺さぶるより、
バニーが安心できるような温もりを与えてやる。
そうすれば、上手くいけば眠りを妨げることなく悪い夢だけを追い払ってやれる。
こいつと付き合うようになって、俺が試行錯誤して辿りついた辛い夢の壊し方。
でも今夜はそうはいかなさそうだ。
バニーは顔を顰め、小さな呻き声をあげている。
俺はさっきより少しだけ強くバニーの身体を揺すった。
「苦しいだろ、もう目ぇ覚ましちまえよ。」
すべすべした頬を突いて呼びかけるけど、今夜の悪夢はなかなかしつこい。
「は・・・ああ・・・。」
上手く息が吸えないみたいに喉のあたりを押さえ、バニーは喘ぐように口呼吸する。
「っく・・・は・・・」
上手く息が吸えてないのか、はくはくと空気を貪るように唇が動く。
まずいな、このままだと発作起こすかもしれない。
そうなる前に叩き起こした方がいいか?
「バニー、苦しいのか?しっかりしろよ。」
何度も呼びかけながら脈拍と呼吸を確かめる。
うん、息は荒いけど過呼吸までは起こしてない。
過換気発作起こしてたらすぐ目覚めさせて処置しなきゃいけないけど、
この様子ならまだ優しく呼びかける方がいい。
その時バニーがひときわ強くひきつけを起こすように震えた。
「い・・・や・・・」
「バニー、大丈夫か!?」
俺は魘されるバニーが可哀そうで、胸が苦しくなった。
けどここで大げさな声で話しかけると余計苦しんだりするから。
俺は出来るだけ明るい調子で話しかけた。
「バニーちゃん、早く起きろって。それともちゅーしなきゃ起きないってか?」
涙を流して苦しむバニーの唇に触れるだけのキス。
眠れる美人を起こすお約束だもんな。
まあ俺は王子様というよりはオジサマだけどな。
「起きろよ美人さん。」
ちゅっちゅとリップ音を立てて何度もついばむように口づける。
二、三回もそんなことを繰り返せば、
バニーは目を覚ましてようやく悪夢から解放された。
「虎徹…さん。」
長い睫を何度も瞬かせ、頼りない翡翠が周囲を見回す。
夢だと分かったのか、ふうっと息を吐き手の甲で目許を覆った。
「すみません…。また夜中に…。」
しょげるバニーに気にするなと首を横に振ってやる。
「気ぃつかうなって。辛い夢見て苦しかったのはお前の方だろ?」
汗で頬に張り付いた一筋の髪を払ってやると、
バニーはその温もりを確かめるように俺の手に自分の手を重ねた。
憔悴するバニーも綺麗だけど、こういうのは見てて辛い。
「大丈夫か、水でも持ってこようか?」
俺は冷や汗をびっしょりとかいたバニーの額を拭ってやった。
「いえ、大丈夫です…。」
そうは言うけどまだ息が荒い。
「無理しなくていいから。俺の前で我慢なんかすんなよ。」
寝たまま抱きしめてやると、しがみつくように廻される白い腕。
バニーはぱっと見は線細げに見えるが一流のヒーローだ。
決して華奢なんかじゃない屈強な身体が、
見えない敵に脅かされ今も微かに震えている。
2年前死んだマーべリックの残像が亡霊のようにこいつを苦しめる。
「大丈夫、あいつはもういない。もう…死んだんだよ…。」
俺はそう言って強張ったバニーの身体をそっとさすった。
「虎徹さんの心臓の音…。」
バニーは俺の胸に耳を当て、やっと安心したような笑みを浮かべた。
「よかった…生きてる…。」
どうやら今日の悪夢はあの時のジャスティスタワーが舞台だったらしい。
ごめんな…。
ああするしかなかったとはいえ、お前に辛い記憶を植え付けちまった。
俺がそう謝るとバニーは静かに首を横に振った。
「虎徹さんのせいじゃありません。あの男の仕組んだことです。」
俺はバニーを抱きしめゆっくりとその背を叩いた。
赤ん坊だった楓によくそうしたように。
あの日からもう二年以上が経つ。
けれどバニーの心の傷は今もこうして酷く疼いている。
いつまでこんな事が続くのだろう。
どうしたらこいつは過去の苦しみから解放されるのだろう。
何度考えても答えの出ない問いに俺は胸が押しつぶされるような圧迫感を感じた。
バニーはもともと不眠症持ちだ。
あの聖夜の惨劇を20年以上も夢に見続けたのだから無理もない。
一応の解決を見たあの事件以降なくなるかと思ったのに、
頻度は減ったもののバニーは今も悪夢を見る。
それも、今は色々と形を変えて。
4歳のクリスマスイブ。
一昨年の冬、ついに仇敵マーべリックに辿りつきながら記憶を蹂躙されたあの社長室。
そして…操られるままに俺を殺そうとしたあの日の夕暮。
とうとう果たせなかった両親の仇討ち。
操られ俺に襲いかかったことへの後悔。
減退を知らぬまま俺を撃ったジャスティスタワー。
忘れてしまえれば楽になれるのに、そういう事柄に限って記憶から消えない。
「どっかにさ、夢を操れるNEXTがいたらいいのにな。」
何か幸せで無害な夢を見させてくれるような。
俺がそう言うと、バニーは静かに首を横に振った。
「僕は…もう意識や無意識を他人に操作されるのはごめんです。」
…そっか、そうだよな。
考えてみればそれはマーべリックのしたこととそう変わりはない。
「ごめん、無神経なこと言った。」
バニーは今度は微笑んで首をまた横に振る。
「僕を思いやってのことでしょう、無神経なんかじゃない。」
バニーはふっと息を吐いた。
「虎徹さん…。」
ん?
「僕は多分、この先もずっと魘されると思います。」
…そうとは限らねえだろ。
時間はかかるだろうけど、いつかは…。
「いえ、最近思うんです。どう頑張っても過去は変えられない。」
そうだな。
「両親の死も、操られて貴方を殺めようとしたことも全て事実だ。」
…うん。それで?
「今まではどうやってこの重荷から逃れようかと考えてました。」
うん。
俺もどうやったらバニーがもっと楽に生きられるのかなってずっと考えてた。
そう言うとバニーは嬉しそうに笑った。
「やっと分かったんです。僕は根本から間違っていました。」
間違ってた?
「ええ、僕に必要なのはこの重荷を生涯抱えていく覚悟だったんだ。」
その悲愴な笑顔に俺は胸が締めつけられた。
…バカ野郎。
悩んだ末にそんな結論に持っていく奴があるかよ。
俺はバニーの額にデコピンした。
「ったく、このばかちん。違うだろうがよ。」
けっこう痛かったのか涙目で額を擦りながらバニーが俺を頼りなげな眼で見つめた。
本当は怖くて不安なくせに何でもかんでも一人でしょいこみやがって。
もう、お前に前みたいな何にも見てない目をさせたくねえんだよ俺は。
「なんでもっと頼ってくれないかなあ。」
俺はバニーの手を強く握った。
バニー、もうこれ以上独りで抱え込むなよ。
過去の重荷を独りで持ち切れなくて心が悲鳴上げてんだろ。
お前がそれを抱えて墓場まで持っていくってんなら止めはしない。
けど俺にも半分持たせろ。
それがパートナーってもんだろ。
それとも、そんなに頼りねえかな俺って。
バニーは暫し俺の顔をぼんやりと眺めていたが、ぐっと声を詰まらせ俯いた。
その沈黙を俺はただ待った。
甘えベタのバニーが本当の意味で俺の手を取るのを。
「腰が抜けるほど重いですよ。」
漸く、掠れた声でそう言いバニーは潤んだ目許を手の甲で拭った。
「貴方もろとも底なし沼にはまるかもしれない。」
俺は頷いてバニーを抱きしめた。
かまやしねえよ。
持ち切れなくて二人でいっぺん放り出したって、
ちょっと休んだらまた抱え上げたらいいだろ。
底なし沼に沈みそうになったら二人で助け合って這い上がればいい。
一緒になって必死であがいてもがいて、ちょっとずつでも前に進めばいいんだよ。
お前だって俺の減退とか家族の事とかに付き合ってくれてるんだ。
お前の荷物、俺にも持たせろよ。
寂しいんだよ。
お前が自分一人で抱え込んで悲鳴上げてるのを、横で指を咥えて見てるだけなのは。
その言葉にバニーは俺の胸に顔を埋め、小さくしゃくりあげた。
「ほんと『助けて』って言うの下手なんだよな、バニーちゃんは。」
バニーは小さく頷いた。
「ずっと一人で頑張ってきたから、どう言ったらいいのかわかんねえんだよな。」
嗚咽を噛み殺した震える肩を擦ってやると、バニーの身体が弛緩した。
「俺鈍いから気づくの遅いかもしんねえけど、必ず助けるからさ。」
バニーの喉が震えて引き攣れた息を吐きだした。
プライドの高いウサちゃんはこれ以上顔を見られたくないだろうな。
俺がそっと灯りを消すと、堰を切ったように悲嘆の声が耳に響いた。
今まで一人でよく頑張ったな。
よしよし。
好きなだけ泣いて吐き出しちまえよ。
俺が全部受け止めるから。
ずっと隣に居て、お前を支えるから。
それは女神の祝祭日を間近に控えたとある春の夜のこと。
俺はシュテルンビルトの女神に誓っても良いと思った。
引き裂かれる運命がすぐそこにあるとも知らないで。
バニーにはああ言ったけど、俺はもがくことを一度は諦めそうになった。
けれど、どうしても割り切れなくて、手放すなんて出来なくて。
俺は容赦ない現実にあがいてもがいてもう一度掴みとった。
周囲のお膳立てにも伸ばされることはなく、それでもじっと俺を待つその手を。
そうして掴んだ互いの手。
もう離しはしない。
共にもがいてあがいてそれでも先に進んでいこう。
どんな嵐でも泥沼でも。
ぶつけたサムアップに俺は誓った。
終り