ツレが風邪をひきまして
2.虎徹さんとデレバニ
「大丈夫ですか?」
バーナビーはベッドの傍らに膝をつき、荒い息を吐く虎徹の額に触れた。
「あんま大丈夫じゃねえ…。頭くらくらする…。」
バーナビーの冷たい手の感触が心地いい。
その手を取り自分の頬に宛がうと、
ひんやりとした白い指先が優しくそこを労るように撫でた。
「言いたかねえが、文字通り『年寄りの冷や水』だなー。」
虎徹は熱に掠れた声で自嘲して笑った。
「もう、笑い事じゃないでしょう。こんなひどい風邪引いて。」
バーナビーが困ったように眉尻を下げる。
昨夜の出動の後、トランスポーターでシャワーを浴びたら
勢いよく噴き出してきたのは冷たい水だった。
「だっ!!冷てええ!!」
一基しかないシャワーを先に浴びて被害に遭ったのは虎徹だった。
「大丈夫ですか虎徹さん!!なんで水が…。」
「故障だな。諦めろ。」
斎藤に言われ、バーナビーはシャワーそのものを諦めた。
しかし虎徹はお湯が出ることを諦め、そこで汗を流した。
今年一番の冷え込みが予想された日の夜に、である。
バーナビーは風邪をひくからやめたほうがいいと止めたが、
虎徹は汗が気持ち悪いし、どうせもう濡れたから同じだと聞かなかった。
その結果、虎徹はその夜から発熱。
悪寒と熱の波状攻撃に遭い、身動きもとれずベッドに沈没する羽目になった。
そして丸1日仕事も出動も病欠して今に至る。
「だから言ったじゃないですか。水のシャワーなんか浴びるなって。」
バーナビーはしょうがない人だと呆れながらも、
虎徹の額を伝う汗をびしょ濡れのタオルで丁寧に拭った。
絞っていないタオルから垂れる水が汗より多い。
虎徹の口元にタオルから滴った水がだらだらと流れ落ちる。
虎徹はバーナビーに気づかれないよう、布団の端で口を拭った。
「だってよぉ…。早くさっぱりしたかったんだもん。」
虎徹は冷たいタオルの感触に気持ちよさそうに目を細めながら、
母親に言い訳する子供のように唇を尖らせた。
「それでもっと気持ち悪くなったんじゃ意味ないでしょう。」
バーナビーは溜め息をつきながらも、虎徹の様子を子細に窺った。
<さっきより顔が赤い。熱が上がったんじゃないかな。>
ここに来る前、医療サイトで調べた検温法に書いてあったことを思い出し、
バーナビーは傍らにあった体温計を手に取った。
<一番正確に体温を測る方法は確か…。>
バーナビーは虎徹の布団をいきなり捲りあげた。
「虎徹さん、パンツ脱いでお尻出してください。」
「ぶっ!?」
虎徹が噴き出し、その勢いでゲホゴホと激しく噎せた。
「バッ…バニーちゃん!?何いきなり!!したくなっちゃったの!?しかも俺が下!?」
錯乱したように捲し立てる虎徹に、バーナビーは心配そうに眉根を寄せた。
「ああどうしよう、熱で頭がやられてきてる…。体温を測るだけなのに。」
「頭おかしいのはどっちだよ!!なんでケツで熱測るの!?」
「直腸の体温が一番高く出ると医療サイトに出ていました。正確を期すためには…。」
「普通そこまでしねえよ!!脇の下か口の中だ!!お前の母ちゃんケツに突っ込む人だったの!?」
「母に看病してもらった記憶はありません。」
バーナビーがさらりと言った言葉に虎徹はしまったと顔をしかめた。
「…ごめん。いろんな意味で、ほんとごめん。」
バーナビーはやれやれと虎徹の額に手を触れた。
「気にしないでください。普通は口なんですね。じゃあ、これ咥えてください。」
虎徹は差し出された体温計を素直に咥えた。
ふと、虎徹はある疑問を感じた。
「はあ、ふぁにーちゃん。ほはへひょうひひたほほはひの?」
「正確に測れないから喋らないでください。ありますよ、病気したことくらい。」
「はほひ、はひほんへいふはっはほほねえほ?」
「体温計は使いませんね。温度なんか見たって辛くなるだけですから。」
ピピピッと電子音が鳴り、バーナビーは体温計を取り上げた。
38.2°。
検温中に喋ったから正確とは言い難いが、それにしてもまだ高いなと
バーナビーはタオルを洗面器で浸し、そのまま虎徹に乗せた。
びしょ濡れタオルから流れ落ちる水が目に入り、
虎徹は目を閉じてごしごしとそこを拭った。
「でも子供の時は誰かが測ってくれるだろ?」
「子供の時から測りませんでしたよ。ひたすら布団に引きこもるだけです。」
バーナビーのあまりに淡々とした口調に虎徹は目を見開いた。
「どういうことだ?」
バーナビーは困惑した表情を浮かべ、小さな息を吐いた。
「こういうのは不毛な不幸自慢に聞こえるかもしれませんが…。」
僕は小さい時から病気しても周りに誰もいませんでしたから。
検温なんて無意味だったんですよ。
体温計を見たところで熱が下がるわけでもないし。
自力で薬も取りに行けない、服も替えられないほどの熱なら、
ただ毛布にくるまってひたすら寝てました。
食事も数日なら食べなくてもなんとかなるもんですよ。
水と塩さえ摂ってさえいれば死にはしません。
ああ、でも…。
一昨年だったか、3日で3キロも筋肉落ちたのは参りましたね。
もし今ああなったら、ヒーローとしてかなりまずいですね。
だから、体調管理には気を遣ってますよ。
虎徹はそれを聞いて言葉を失った。
熱で汗ばんだ身体を拭いてくれる誰かの優しい手。
弱った体を滋養する温かな食事。
それすら望めなかったというのか。
幼い子供の頃でさえ。
「…お前、本当に苦労したんだな…。」
虎徹の辛そうな声にやはり話すんじゃなかったなとバーナビーは後悔した。
「すみません。病人につまらない話をしました。」
「つまらないってお前…。」
「あ、そうだ。虎徹さんお腹すいてませんか?」
脈絡なくバーナビーはそう言って笑った。
重くなった空気を変えようとするように声の調子が妙に明るい。
「お粥と味噌汁の作り方も調べたんです。食べないと治りませんから。」
その言葉に虎徹は胸が熱くなった。
<水と塩で生き延びようとしてたこいつが…俺のために?>
今日も仕事と出動で激務だったろうに。
その合間を縫って、病人食の作り方まで調べてくれていたとは。
虎徹の熱でやつれた頬を、冷たいものが伝い落ちた。
「食う!バニーちゃんの手料理食ったら、きっとすぐ治る!!」
目頭を手の甲で拭い、虎徹は嬉しそうに言った。
「じゃあ、ちょっと待っててくださいね。」
バーナビーはにこやかに笑うと、ロフトを降りて行った。
「どうりで滅茶苦茶な看病なわけだ…。可哀そうに…。」
虎徹はバーナビーの背を見送り、小さく呟いた。
「そんな可哀そうな状態を当たり前だと思ってんのがまた…なあ。」
前に彼の部屋の写真で見た幼いバーナビーが、
毛布に包まり高熱の苦しみにただ耐えている。
そんな光景をつい想像してしまい、
虎徹は眦からまた涙が流れるのをスウェットの袖で拭った。
「どんなに辛かっただろうな、ちっちゃいバニーちゃん…。」
親身な看病をされたことがないから分からないのだ。
風邪の手当てすら、ネットで検索しなければいけないほどに。
それでも彼は一生懸命に、慣れない世話をしてくれる。
その一つ一つに、早く良くなって欲しいという気持ちが伝わってくる。
そう思うと、全てが愛しく感じる。
絞らない濡れタオルも、直腸で検温しようとするのも。
「今度お前が風邪引いたら、泊まりがけで看病してやるよ…。」
水と塩だけで何キロも痩せるとか、
そんな辛い思いもうさせねえからな。
今まで我慢してきた分ベッタベタに甘えさせてやるから。
虎徹はそう考えながら額の濡れすぎたタオルを愛しそうに頬に当てた。
「飯も何かちょっと危険な気がするけど…。お前の気持ちは無駄にしねえよ。」
虎徹は階段から聞こえてくる足音にそっとそう言った。
「お待たせしました。さあ、どうぞ。」
バーナビーが差し出した夕餉の盆を見て、虎徹はまた眼を見開いた。
「あ、ありがとなバニー。う…旨そうだな!!」
虎徹が咄嗟にそう言うと、バーナビーは嬉しそうに笑った。
花の顔を綻ばせるとはこのことだというような、綺麗な笑顔。
しかし…。
虎徹はまじまじと湯気の立つ皿を見つめた。
湯気の立つ白濁したお湯の底に沈む生米…たぶん、お粥。
とろみがポタージュっぽい半液体は味噌汁のつもりだろうか。
その皿にもったりと横たわる、切っていないワカメの山。
添えてある胡瓜の漬物がいわゆる新妻切りなのはもはや様式美だろう。
しかも、一本丸々のまま皿に横たわっている。
<なんかすげえ試練キターーーーーーーー!!!>
心の中で虎徹は頭を抱えて絶叫した。
病気で弱った胃にこれをぶちこめと!?
たとえ元気でも生米はきつい。
<ちょっとだけ食って、『食欲ないから後で食う』って言って残せば…。>
バーナビーの気持ちを無駄にしたくはないが、限度ってもんが…。
虎徹は必死で『バーナビーを傷つけないで残す方法』を脳内で検索した。
「日系料理の動画サイトを見ながら作ったんです。口に合うといいんですけど。」
虎徹さんに喜んでほしい。
そんな気持ちがあふれ出たような、キラキラした笑顔でバーナビーは言った。
<残せねえええーーーーーー!!!>
『惚れた弱み』とはこのことだ。
『顔で笑って心で泣いて』もこのことだ。
虎徹は精いっぱい、嬉しそうな顔を作った。
「バニーが俺に作ってくれたもんが、口に合わねえわけねえって。」
それを聞いて心底嬉しそうなバーナビーの笑顔が虎徹をさらに追い詰めた。
「よかった。おかわりも下に大鍋いっぱいありますから。」
「あ…うん。ありがとうな。」
心の中で動画サイトのUP主出てこい!責任取れ!!と叫びながら、
虎徹はお粥を口にした。
硬い。
塩辛い。
ワカメが喉に引っかかる。
虎徹はお粥もどきを似非味噌汁でどうにかこうにか胃に流しこんだ。
食べるたびに体力が奪われていく感じがする。
それでも体力と気力の限界まで、虎徹は胃に食事を押し込んだ。
「ごっそさん!旨かったぜバニー。なんか食ったら眠くなってきた…。」
もう駄目だと思った虎徹はスプーンを置き、目を瞬かせた。
これ以上食べたら確実に逝ける。
「ああ、遠慮しないで眠ってください。」
バーナビーは微塵も疑わず、虎徹が横になるのを手助けした。
「ありがとな、バニー。」
「いいから、早く良くなってくださいね。」
労りに満ちた優しい声に虎徹は緩く笑った。
そのままゆっくりと目を閉じる。
「お休みなさい、虎徹さん。」
バーナビーはまだ熱い虎徹の唇に軽く口づけて、静かにロフトを降りた。
久しぶりの日本食を食べたせいだろうか。
虎徹は懐かしい夢を見た。
それは、ふわふわとした雲の上で友恵と再会する夢だった。
終り