アリアドネの糸
1.海中のミノタウロス
ゆらゆらと揺れる海面に小さな船が一艘。
陸から見たらさぞかし長閑な光景だろうな。
ワイルドタイガーは緊迫した船上を見ながらそんなことを考えた。
そこには長閑さどころか、ピリピリとした空気が張り詰めている。
「なあ、本当に他に方法はねえのかよ。」
タイガーは周囲に作戦の再考を求めるようにまた訊ねた。
「ありません。これが今とりうる最善の策です。」
バーナビーはくどいというニュアンスを滲ませ、淡々と答えた。
アンダースーツにスキンダイビングの装備という
奇妙ないでたちでボートの縁に腰掛け、最終点検をしながら。
「船の航行中にあれが爆発したら大惨事です。早くしないと…。」
二人は船の左舷真横、問題のポイントをじっと見つめた。
<シュテルンビルト湾に爆発物が沈んでいるという情報があったわ。>
アニエスの呼び出しは二時間前に遡る。
先日逮捕した海上ハイジャック犯が、テロ目的で爆弾を海に沈めたという。
そこは海上交通の要衝で、上には巨大な跳ね橋もかかっている。
幸い、爆弾が起動する前に事件は収束したが、
防水防塩加工を施されたそれはその機能を喪わず
犯人グループが全員逮捕された今も海底にある。
爆発予定時刻は明朝の午前8時。
通勤ドライバーでごった返す渋滞が狙いだったようだ。
ならば時間に猶予があるのかと思いきや、
今夜にはシュテルンビルト沖を嵐が通過する予報が出た。
海が荒れたことで何らかの衝撃が掛かれば甚大な被害を出しかねない。
「だからって、この作戦はバニー一人に負担が掛かり過ぎだろ!!」
タイガーは納得できないと声を荒げた。
司法局はヒーロー全体ではなく、
タイガー&バーナビーだけに出動要請してきた。
それも生放送なしの極秘裏に処理してほしいと。
「バニーが爆弾処理できるのを利用しやがって…。」
タイガーはアニエスが立ちまわったであろう采配に歯噛みした。
同乗していたヒーローTVの撮影クルーが気まずそうに目を逸らす。
「アニエスさんも司法局と交渉はしたんですが…。」
ケインは口ごもりながら説明した。
彼の持っているカメラも、司法局への提出映像のみを撮るらしい。
「司法局は、バーナビーさん以外はこの事態に対処できないと…。」
確かに、この件に関して自分も含め他のヒーローは無力だ。
だからって、相棒一人を海に潜らせ爆弾処理させるなんて。
「バニー、やっぱり俺も一緒に…。」
タイガーは何度も却下された提案を三度口にした。
しかしバーナビーは頑として受け入れない。
「二人で行っても危険が増すだけです。それに…。」
バーナビーはタイガーの腕を見て穏やかな笑みを浮かべた。
「タイガーさんがここにいてくれるから、僕は安心して行けるんです。」
タイガーがバーナビーの左腕にワイヤーを巻きつけ、
帰る方向を示すほか、いざという時には強制的に回収する作戦。
それはまるでギリシャ神話のアリアドネの糸だとバーナビーは思った。
だとすると、爆弾はミノタウロスか。
糸の先にいるのがお姫様じゃなくて、髭面のオジサンっていうのがあれだけど。
バーナビーはそう想像してちょっと笑った。
そしてタイガーの左腕に嵌められた時計に、自分の右手を添えた。
「僕は一人で行くんじゃない。この命、貴方に預けましたよ。」
「だっ…!!ずるいぞ、その言い方!!」
タイガーはそう言われると、何としても彼を守ると腹を括った。
「預かるだけだぞ!ちゃんと帰って来いよ!!」
「もちろんですよ。こんなとこで死ぬ気はありません。」
いつもの自信みなぎる表情でバーナビーは頷いた。
「準備はいいか、バーナビー!」
拡声器をつけた斎藤がひょこひょこと歩み寄った。
「これを咥えていけ。特製の空気吸入機だ。」
斎藤はピンクのネックストラップにぶら下がった
兎エンブレム形の空気吸入機をバーナビーに手渡した。
「はは、これまで兎型って。」
バーナビーは笑ってストラップを首にかけ、兎の耳を咥えた。
「スーツやエアタンクはいざという時邪魔になるからな。」
緊急時にバーナビーの身の安全を確保するため、
斎藤の指示でバーナビーは軽装での単独潜水をすることになった。
その分、バーナビーの身体にかかる負荷は大きい。
タイガーはなおも心配そうに相棒を見遣った。
「こちらからの指示もこれで聞こえる。」
バーナビーは頷くと眼鏡を外しタイガーに預けた。
ダイビングマスクは度入りを用意されていたらしく、
ほやけていた視界がクリアになる。
タイガーはバーナビーから少し離れ、
彼の左腕に向けてワイヤーを射出した。
バーナビーの命が、この腕に掛かっている。
そう思うと、確かにこの任務は二人で遂行するのだと思える。
「バニー、気をつけろよ。何かあったらすぐ浮上するんだぞ。」
バーナビーは小型空気吸入機を咥えたまま、
親指と人差し指で輪を作り「了解」のサインを送る。
バーナビーは呼吸を整えると片足を船の縁にかけた。
<行きます。>
バーナビーはサムアップした親指をすいと海面に向けた。
「ワイヤー伸ばすから、ゆっくりいけよ。」
バーナビーはタイガーに頷くと、
マスクのストラップとレンズを手で押さえ、重心を静かに前にのめらせた。
長い脚が空に弧を描き、海面を割る音とともにバーナビーの身体が水面に沈む。
タイガーはバーナビーの動きに合わせてワイヤーを伸ばしはじめた。
「いいぞ、行ってくれバニー。」
その声に応えるように、ピンク色のフィンが水面でひらりと一度しなる。
ブレードが水面を打って潜降に加速をつけ、やがてその姿は完全に海の底へ消えた。
<バニー、頼んだぞ。>
タイガーは小さな気泡が立ち上る海面を覗き込んだ。
バーナビーの吐息の泡沫が、うねる波に呑みこまれ消えていった。
晩秋の海水は肌を刺すように冷たい。
<あんまり長居はしたくないな。>
ゆっくりと圧平衡をとりながら20メートルほど潜ると、
バーナビーは岩だらけの海底を見回した。
<あれか。>
船から数メートル離れたドロップオフの端に、
周囲の景色と不釣り合いな人工物が転がっている。
<あれが“ミノタウロス”か?>
バーナビーはそっと近づいて、それの状態を確かめた。
そこで目にしたものに、バーナビーは驚愕で目を見開いた。
<…何だこれは!今夜の嵐どころの話じゃない!!>
刻々と数値を減らすタイマーは、わずか30分後を狙っていた。
<もう時間がないも同然だ!!このままでは…!!>
この上の橋はこの時間、仕事帰りの大渋滞だ。
もしこれがその時間に爆発したら…。
バーナビーは急いで懐から万能ツールを取り出した。
ふとタイガーとの取り決めを思い出したバーナビーは
ワイヤーを三回引っ張るか一瞬迷って、引かないことにした。
上と相談している暇はない。
サインを送れば上の仲間を心配させるだけだ。
≪絶対、止めなくては!!≫
バーナビーは一度息を整え、時限爆弾の解除を始めた。
タイガーは全神経を集中してワイヤーのテンションを確かめた。
事前にバーナビーと打ち合わせ、サインを決めてある。
一回引っ張れば「yes」のサイン。
二回引っ張れば「no」のサイン。
三回引っ張れば「emergency」のサイン。
向こうからこちらに声を掛けることはできない。
だからこちらからこまめに状況を聞きだす必要がある。
だが、フォートレスタワー事件を思い出すと、
不用意に声を掛けるとバーナビーの邪魔になるとタイガーは自戒した。
まずは、現場の状況を確認しなくては。
そろそろ海底に着底して目的のものを見つけた頃だろう。
タイガーはインカムをオンにし、バーナビーに声を掛けた。
「バニー、ブツは見つかったか?」
問いかけるや否や、素早く力強い「yes」のサインが帰って来た。
「状況はどうだ。やれそうか。」
束の間の沈黙の後、ワイヤーは一度だけぎこちなく引っ張られた。
「…分かった。絶対に無理はするなよ。」
今度は素早く一回だけ、ワイヤーが震えた。
<…あいつ…。>
タイガーは険しい顔つきで海面を睨んだ。
なんとなく、嫌な予感がしてならない。
開始して僅か10分でトラップの解除はなんなく済んだ。
あとは二本の導線のどちらを切るかだけ。
バーナビーは最後の処置を前に逡巡した。
構造はシンプルだが、威力はあの爆弾の比ではない。
失敗すれば自分だけでなく、
海上の虎徹たちや橋を通行するものまで全員あの世行きだ。
タイマーはあと20分。
<どっちだ…どっちを切れば…。>
バーナビーの手が震える。
不規則な呼吸の泡沫がごぼりと音を立てて昇っていく。
…怖い。
自分の判断に皆の命が掛かっている。
もし失敗したら…。
もし、決断できないままタイムアップになったら…。
どちらかを切らなきゃ、みんな死んでしまう…。
上を切ろうとしては手を止め、
下を切ろうとしては逡巡する。
<落ち着け…。セオリーを考えろ!!>
だが、そのセオリーを自分が信じきれない。
最悪のバッドエンドばかりが脳裏をよぎる。
確率は1/2。
しかし、どちらも間違いに見えて手が出せない。
タイマーが10分を切ったその時。
≪バニー、聞こえるか!≫
タイガーの声が空気吸入器のインカムから響いた。
≪どうしても迷ったら、勘でいけ!あの時を思い出せ!!≫
<虎徹さん…。>
バーナビーはフォートレスタワーでの虎徹の姿を思い出した。
極限状態で答えを出せなかった自分に、
彼は力技の突破口を開いてくれた。
≪俺はお前を信じる!だから、お前も自分を信じろ!!≫
バーナビーの手の震えが止まった。
<全く、あの人は千里眼でも持ってるのか。>
こちらは何も言っていないのに、見透かされたようでちょっと悔しい。
そのときバーナビーはフォートレスタワー事件の連想から、
その発想に思い至った。
確かめるようにドロップオフを見ると、
小魚の大群が吸い込まれるように崖下に消えた。
<…そうだ。>
漸く答えは見つかった。
バーナビーは一度息を整え、力強くワイヤーを一度引いた。
自分を信じて、絶対にやり遂げて見せる。
もうこれは要らないと万能ツールを放り出すと、
バーナビーはその場に立ちあがりフィンを脱ぎ捨てた。
<一か八か…!!>
バーナビーの瞳が海の色に変わる。
一つ息をつくと、水の抵抗をものともせず利き脚を後ろに振りあげた。
<やってやる!!>
残り時間はあと5分を切った。