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アリアドネの糸

 

2.アリアドネの抱擁

 

水面のうねりがやけに大きくなった。

タイガーがそう思った瞬間、ぐらりと船が大きく揺れた。

あちこちで転倒する乗員の悲鳴が響く。

「だっ!!

左舷端にいたタイガーも海に放り出されそうになったが、

咄嗟に踏ん張り、船縁を掴んで何とかこらえた。

「あっぶねー!

その時だった。

船底をびりびりと揺るがすような振動が走り、

数メートル先の水面が異様に大きく膨れ上がった。

 

ドオオオオオン!!!!

 

凄まじい飛沫をあげ、高さ数メートルの水柱が立ち昇った。

「なんだ!ま、まさか爆発!?

撮影クルーが驚愕の声をあげながらもカメラを回す。

爆発という言葉にタイガーは一瞬目の前が暗転した。

「バニー!バニーは!!

タイガーは必死でワイヤーを引いた。

しかしどこかに流されたのか、ワイヤーのテンションは弛んでいる。

「バニー!!

タイガーの背筋を冷たいものが伝った。

大急ぎでワイヤーを巻き上げ、テンションを張り詰めたが、

バーナビーからのレスポンスはない。

「バーナビー!大丈夫か!!

斎藤の言葉にも反応はない。

バーナビーの身に何かあったのは明白だ。

もはや一刻の猶予もない。

バーナビーを細いワイヤーで引き上げるには時間が掛かる。

こちらから行って救助するほうが確実だと、

タイガーは傍にあった係留用のロープを自身の腰に巻きつけた。

 

「バニー、今行くからな!!

有事に備え、バーナビーと同じ装備をして待機していたのが幸いした。

ものの数十秒で準備を終えると、

タイガーは船縁に立ち、そのまま海に飛び込んだ。

 

<頭、くらくらする…。気持ち悪い…。>

バーナビーは朦朧とする意識を必死で呼び戻そうとした。

<上に…戻らないと…。>

爆発の衝撃波は想像以上の速さで彼を襲った。

凄まじい速度での急浮上を強いられ、平衡感覚が麻痺している。

もし能力を発動していなかったら肺をやられていた。

バーナビーは九死に得た一生を手放すまいと懸命に帰路を探した。

<…あれ、上はどっちだ…?

海面まであと数メートルのはずなのに、その方向が分からない。

爆発による粉塵で水中の透視度が一気に悪化したことと、

衝撃波でバーナビーが脳震盪を起こしたせいだ。

 

最善は尽くした。

あとは、自分が帰還すればミッション完了だ。

だけど、その帰り道が分からない。

 

ワイヤーを辿る。

吐いた息が昇る方角が上。

そんな判断も下せないほど、

バーナビーの意識は泡沫のように消えかけていた。

それでもバーナビーはなんとか意識を振り絞った。

なんとしても帰らなくては。

船上に自分を待ってる人たちがいる。

<ああそうだ…ワイヤー…。アリアドネの…い…と…。>

ピンと張ったワイヤーを手繰ろうとしたバーナビーの手が、

力なくその糸から滑り落ちた。

<虎徹…さん…。>

視界がブラックアウトしていく中、

最後に聞こえたのは何かが猛烈な勢いで水を蹴る音だった。

 

ワイヤーを巻き戻しながら、その張力と重みの伝わるほうへ。

タイガーは能力を発動して、必死で水中を進んだ。

白く濁る海水の奥で、青く光る何かがゆらりと揺らめいた。

<いた!

金の髪を水に踊らせ、力なくただ浮かぶバーナビーが

二メートルほど下に見える。

タイガーはワイヤーを戻しつつ、もう一方の手を伸ばした。

意識がないのか、掴み返す気配が全くない。

 

<バニー!しっかりしろ!!

タイガーはバーナビーの身体をしっかりと抱きかかえた。

見ると口元に空気吸入器がない。

それはネックストラップに繋がったまま、すぐ傍を漂っていた。

タイガーは片手でバーナビーを抱え、もう片手でそれを掴みとった。

兎の耳を咥え思いっきり空気を吸い込むと、

息を止め空気吸入器を離した。

バーナビーの鼻をつまみ、喉を反らせて気道を確保する。

タイガーはバーナビーの頤に指を掛け、

口をそっと開けて空気を送り込んだ。

海水を飲まないように、飲ませないようにと細心の注意を払いながら。

<バニー…まさか…!!

バーナビーの唇の冷たさにぞっとする。

それは妻が亡くなった時、最期に交わしたキスの感触にあまりにも似ていた。

最悪の結末を否定したくて、タイガーはバーナビーの首筋に触れた。

拍動を感じる。

バーナビーは生きている。

タイガーは泣きたいほどの安堵を感じた。

<って、安心してる場合じゃねえ!!

まだ助かったわけではないのだ。

肺いっぱいに空気を補給すると、再びバーナビーにそれを分け与えた。

<目を覚ませバニー!!お前の命、預かるだけだって言ったろ!!

タイガーはバーナビーを抱え、ありったけの力で浮上した。

何度も何度も、命の息吹を吹き込みながら。

 

「…う…。」

小さな呻き声をあげ、バーナビーは重い瞼をゆっくりと開いた。

「バニー!気がついたか!!

猫型の髭がやけに鮮明に見えたかと思うと、次第にぼやけていく。

「…こ…、タイガーさん…。」

バーナビーは何度か目を瞬かせ、横たえられたまま辺りを見回した。

周りを取り巻いていた撮影クルーや斎藤の安堵の声が聞こえる。

「バニー、よかった。なかなか目を覚まさないから心配したぞ。」

タイガーはバーナビーの上体を抱え起こし、

その頬に張り付いた髪を払ってやった。

「大丈夫か?どこか痛いところは?

そう訊ねながら負担が掛からないよう自分に凭れかけさせると、

バーナビーは身体がだるいのか素直に身を預けた。

「大丈夫、少し疲れただけです。」

そう答えながら見たタイガーのシルエットに

違和感を感じたバーナビーはそっと彼の髪を梳くように手を伸ばした。

頭のてっぺんからずぶ濡れになっているのを感じる。

「タイガーさんが助けてくれたんですね…。ありがとうございます…。」

周りに心配と迷惑を掛けたと気に病んでいる。

それを察知したタイガーはバーナビーの背中を叩いた。

「何を水臭い事言ってんだよ。お前のおかげで、皆助かったんだ。」

 

どうやったのか分かんねえけど、お前のおかげだよ。

水上には小さい水柱が上がっただけだ。

お前が命がけで爆弾を何とかしてくれたから、それですんだんだ。

お疲れさん、バニー。

それと、ありがとうな。

 

タイガーの言葉に、撮影クルーや船のスタッフが一様に頷いた。

「そうですよ!バーナビーさん、お疲れさまでした!!

「貴方は命の恩人です!!ありがとうございました!!

「よくやったぞ、バーナビー!!

タイガーやスタッフの労いの声に、バーナビーはようやく破顔した。

この人たちを悲しませる結果にならなくてよかった。

素直にそう思えた。

 

「あ、そうだ斎藤さん。預けてたあれは?

タイガーの声に斎藤がすっとバーナビーの眼鏡を差し出した。

「これ無いとお前何にも見えないもんな。」

斎藤から眼鏡を受け取り、それを掛けると

バーナビーは漸く虎徹の心配そうな顔に気づいた。

「本当にどこか具合悪くないのか?

窺うような顔でタイガーに訊かれ、バーナビーは苦笑した。

これは気を遣って嘘を言ってもすぐ見抜かれるなと観念する。

「少し頭痛がします。たぶん一気に何メートルも吹き上げられたせいだと。」

その言葉に、タイガーの顔が心配そうに曇った。

「大丈夫です。すぐ治まると思いますから。」

「お前は海中で呼吸が停止していたんだ。ちゃんと検査しといたほうがいい。」

タイガーはまだ心配そうな表情でバーナビーの顔を覗き込んだ。

「え…。じゃあ…。」

目が覚めた時、やけに至近距離にあったタイガーの顔。

その時、自分の口元にかすかに残っていた温もり。

その意味を理解して、バーナビーは頬を紅潮させた。

「ほんと、無事でよかった…。」

タイガーにきつく抱きしめられ、バーナビーの目が微かに潤んだ。

<この腕の中に還ってこれてよかった…。>

頭から髪から、全身水が滴っていて良かったと思いながら、

バーナビーはほんの少し頬を濡らした。

 

→続く