僕たちのルール
1.不可触案件
僕と虎徹さんの間には、いくつかのルールがある。
その数が幾つになるかは数えたこともない。
種類も程度も千差万別に、いつの間にか増えていった。
話し合って決めたもの。
なんとなく暗黙の了解になったもの。
虎徹さんがうっかり破ってしまいがちな程度のもの。
どちらかがそれを破ったら、僕たちの関係も終わりかねない重大なもの。
例えば、重要なルールはこんなふうだ。
「彼の奥さんや僕の両親の事件の事は不可触案件。」
奥さんのことといっても、どんな人だったかとかならOKのようだ。
つまり、触れてはいけないのは彼の中で未だに消化できていないこと…。
出動中に奥さんが亡くなり、その最期を看取れなかったことについてだ。
以前虎徹さんが酷く酔った時、そのことを自分から話しだしたことがあった。
あれは夏の休暇明け、虎徹さんが数日間の帰省から戻った日のことだ。
オリエンタルの風習で、その時期に死者の魂が
家族のもとに帰ってくるのを迎えるのだとか言っていた。
そのせいで珍しく奥さんの話を始めたのだろうが、
二人の馴れ初めや結婚の話を飛ばし、いきなり病と臨終の話だった。
あまりにヘビーな話を聞きながら、ふと傍にある写真立てを見てしまった。
まだ若くてとても綺麗な女性が笑っている。
今まで、僕にとって死は「ある日いきなり来るもの」だった。
でも虎徹さんと奥さんの別れは、ある意味もっと残酷だと思った。
ゆっくりと時間を掛けて、大切な人が死に近づいていくなんて…。
「因果なもんだ。ヒーローは家族の死に目にも会えないなんてな。」
その時虎徹さんはそう言って、僕の前で初めて泣いた。
彼の心の瘡蓋は5年たった今も容易く剥がれ、鮮血を流してしまう。
苦しそうな声で何度も、友恵、友恵と虎徹さんは呼び続けた。
逢いたい人にもう二度と逢えない辛さは、痛いほど分かる。
僕は、虎徹さんが落ち着くまでただ抱きしめるしかできなかった。
こんなに大きくて硬い身体じゃ彼女の代わりにはなりえないけれど。
今でもこんなに想われている奥さんが羨ましくて、
少し胸は痛かったけれど。
翌朝、酒と涙で顔が浮腫んだ虎徹さんに平謝りされた。
「ほんと済まなかった。どうか忘れてくれ。」
「謝るようなことじゃないし、僕も酔っててよく覚えてません」
僕はそう言って誤魔化した。
ただ、このことがあって僕の中で
「奥さんの死は不可触案件」と脳内処理された。
それから一カ月くらい経ったある日。
僕も虎徹さんと同じくらい、やらかしてしまった。
会社で…しかも虎徹さんの前で、発作を起こしてしまったのだ。
僕は以前から、両親の事件のことを考えすぎると
過呼吸発作と酷い頭痛を起こすことがあった。
その時、僕は会社のPCで司法局のデータを見ていた。
前日の出動は、表向きは事故現場の救助だった。
しかし公にはされていないが、それはテロの可能性があるらしい。
多重衝突事故の先頭車両が自爆に近い形で破損していたのだ。
事故を引き起こしたタンクローリーの運転手の死に方にも
不自然な点があったという。
テロなんて何の後ろ盾もない一個人がそうそう起こせるものじゃない。
僕はそいつがウロボロスと繋がっているのでは
ないかという疑念を感じた。
運転手に刺青があったかは分からない。
ただの勘だ。
虎徹さんの影響だろうか。
僕は以前ほど人間の勘を軽視していない。
もし奴がウロボロスと繋がっているなら、
今後も似たような事件が起こるかもしれない。
事前にその芽を摘んでおくのもヒーローとしての責務だ。
そんな気持ちで犯罪者のデータを見ているうち、
僕はいつの間にかあの事件のことを考えていた。
ジェイク事件以後、その思考に囚われるのは随分久しぶりだった。
だから油断していたのかもしれない。
ずきん、と締め付けるような感覚がこめかみに走った。
あ、まずい。
そう思った時には遅かった。
「…は…っは、はぁっ…。」
呼吸のリズムが狂い始める。
頭の血管が破裂しそうだ。
胸が苦しい。
頭が痛い。
デスクに伏せようとした拍子に視界が反転した。
僕は無様にも椅子から滑り落ち、左肩を床に打ちつけた。
デスクを掴み損ねた左手が机の上を薙ぎ払い、
いろんなものが落ちる派手な音を立てながら。
「バニー!?」
視界の端で、虎徹さんがすごい勢いで立ち上がるのが見えた。
「う…あっ…。」
「バニー!!おい、しっかりしろ!!」
虎徹さんが僕を抱え起こし、頬を軽く叩いた。
僕は目の前にある虎徹さんの腕を必死で掴んだ。
「こて…さ…。」
苦しい…。
たす…けて…。
陸に上がった魚のように口をパクパクさせ胸を掻き毟る。
そんな僕を見て虎徹さんは何かに気づいたようだった。
「これ、過呼吸か!」
そう…です…。
それすら…答えられない。
「バニー、落ち着いて。少しずつでいいから呼吸を整えるんだ。」
そう…だ。
深呼吸、しろって…いつもマーべリックさんが…。
吸って…吐いて…。吸って…。吸って…吸って…。
だめ、だ…くるしい・・・。
「ば、馬鹿!深呼吸やめろ!!悪化するぞ!!」
え、どういう…こと…。
「ちょっと吸って、2秒息止めろ。…思いっきり吐いて。」
僕はよく分からないまま、言われた通りにした。
「ちょっとだけ吸って…。思いっきり吐きだす。」
虎徹さんはそう言いながら、僕の肺のあたりをゆっくり摩ってくれる。
何度かそうやってると、いつもよりずっと早く楽になった。
「大丈夫か?気分はどうだ?」
呼吸が落ち着いたのを見計らって、虎徹さんが訊ねてくれた。
「だいぶ落ち着きました…。すみません、お騒がせして…。」
少し頭は痛いけど、さっきよりはずっとましだ。
「まだ顔色悪いな。医務室行くか?」
「いえ…。もう大丈夫ですから…。」
そう答える声が掠れて、説得力のない事この上ない。
虎徹さんはまだ心配そうに僕を見ている。
「こんなふうになったのは初めてか?」
僕は首を横に振った。
「両親の事件を追っていた時は時々…。最近なかったのに…。」
昨日の事件とウロボロスの関連を考えていて
つい思考がそっちに行ってしまった。
僕がそう言うと、虎徹さんは僕の背中を労るように撫でてくれた。
「過呼吸持ちなら対処くらい覚えとけ。ヘタな深呼吸は逆効果だ。」
え、前にマーべリックさんにこうしろと言われたのに…。
僕がそう言うと、虎徹さんはマジかよと顔をしかめた。
「過呼吸は息の吸い過ぎだから、ゆっくり吐くほうを多くするんだ。」
よくこんなこと知ってたなと、僕はちょっと驚いた。
「高校の時、友恵が何度か過呼吸になったんだよ。」
それでびっくりして担ぎ込んだ保健室の先生に教わったらしい。
「その先生が言ってた。原因はストレスだって。」
虎徹さんは、僕の背を擦りながら優しい声でこう言った。
「大丈夫、もう終わったんだ。よく頑張ったよな…。」
ふいにそんなことを言われ、
僕は不覚にも涙が止まらなくなってしまった。
「他の人が誰もいなくてよかった。」
そう言って虎徹さんは、僕が落ち着くまでずっと抱きしめてくれた。
あの日、僕が彼にそうしたように。
それから彼は何も言わないが、おそらくこう脳内処理されているようだ。
「21年前のイブの事は不可触案件」と。