脱走中
@ 10月30日
20:30 シュテルンビルト総合市民病院外科病棟 ナースステーション
担当医は深々と溜め息をつきながらナースステーションに入った。
「あら先生。ワイルドタイガーさんの経過を見に?」
「これ先生もどうぞ。美味しいですよ。」
「ワイルドタイガーと何か面白い話しました?」
夜勤のナース達3人が医師に貰いものの菓子を勧めながら訊ねた。
「君達、明日はワイルドタイガーに十分気をつけて。絶対脱走するから。」
その言葉にナース達は顔を見合わせぷっと吹き出した。
「脱走なんて。大腿骨骨折で動けないのにどうやって。」
「いくらタイガーさんだってそんな無茶しないでしょう。」
そう笑った若い看護師たちを一瞥して医師は首を振った。
「ジェイク事件の時、重傷の彼がICU脱走したの知らないわけじゃないよね。」
「でもあれはバーナビーのピンチを…。」
「そう!そのバーナビーなんだよ!!」
いきなり声を荒げた医師にナース達が驚いて口を噤んだ。
「明日は何の日だ?ハロウィン、そして相棒バーナビーの誕生日だ!!」
その言葉にナース達の顔色が変わった。
「さっき診察中に彼が話したことはほとんど相棒の事だったよ。」
「それじゃ本当に明日…。」
医師が気色ばんで叫んだ。
「断言する!奴は明日必ず脱走する!!我々はそれを断固阻止しなくてはならない!!」
「「「おー!!!」」」
4人は高らかに拳を突き上げた。
「うるさい!!貴女たちここをどこだと思ってるの!なんです先生まで!!」
巡回から戻ってきた師長に怒られながらも一同は決意を新たにする。
ミッション<ワイルドタイガーの脱走を阻止せよ!!>
そのミッションは速やかに院内スタッフ全員に通達された。
カルテ、メール、果てはSNSまで駆使して、
上は院長から下は臨時雇いの清掃スタッフにいたるまで誰彼を問わず。
明日、この病棟で働く者全てが監視カメラであり追跡者となる。
ワイルドタイガーの脱走を示す隠語の院内放送コードまで決められ、
逃げた虎を決して院外に出さないと誰もが気合を入れた。
21:30 外科病棟 虎徹の病室
「うーん、どうすっかなあ。」
虎徹はスマホをタップしながら首を捻った。
一週間前の出動で負傷し、入院するはめになったおかげで何の用意もしていない。
「とりあえず0時になったらバニーにメールするとして…。その後だよなあ。」
虎徹はサイトに並ぶ写真や文字を困惑顔で眺めた。
―夜景の見えるレストランで食事。居酒屋なんてありえない(24歳:商社)
―バラの花束とかあこがれる。(27歳:医療)
―安上がりでもいい。手作り感のあるサプライズ(25歳:マスコミ)
ウェブ版女性誌の『アニバーサリー:欲しいのはこんなサプライズ』特集だ。
「だーめーだー。どれもなんか違う。」
虎徹は誌上で好き放題言う女性達の意見に頭を抱えた。
高級レストランなんて飽きるほど行ってるし、今更特別感もない。
花なんて贈ったってあいつの家花瓶あるのか?
手作り感って…俺作れるのチャーハンぐらいだぞ。
2年前にやったサプライズはだだ滑りしたし。
「しかも俺入院中だしなあ。」
ここで出来ることなんて限られている。
花束なら一階の購買にも売っているが…。
「いくらなんでもなあ。」
意外にアニバーサリーを大事にする虎徹は溜め息をついた。
「何が一番喜ぶんだろ。」
バーナビーは女性じゃないのでどこまで参考になるか分からない。
そもそも彼はチヤホヤされるのに慣れているを通り越して食傷気味だ。
一般女性の「年に数回お姫様になりたい」という意見は的外れかもしれない。
それでも虎徹は何かヒントが欲しかった。
「あいつ金持ちだからモノは喜ばねえよなあ。」
彼がこれはと思うような逸品は予算的に厳しすぎる。
それ以前に、バーナビーは好みがうるさい割に物欲はない。
目が肥えているし仕事の制約もあって、いいものしか身につけないが。
普段身につける衣服の大半も、買いに出るのが面倒だから
撮影で持ち込まれたものを現場で買い取ることが多いと言っていた。
それよりもバーナビーは形に残らない想い出になることを好む。
それは温かい想い出の少ない彼の寂しい半生を垣間見るようで、
虎徹はついあちらこちらへ連れ出した。
そういう時、バーナビーは実に素直に喜ぶ。
それがシルバーの大きな公園でも郊外の静かな渚でも。
「こういうの、ちょっとやってみたかったんです。」
子供に交じって他愛ない遊びに興じたりする彼は歳より遥かに幼く可愛く見えた。
この時期なら紅葉の綺麗な公園などでもよさそうだ。
「どっか連れてってやりたかったなあ。」
虎徹は思うように動かない脚を苛立たしげに叩いた。
「痛ってえ!!!」
介達通がビンビンと患部を迸り虎徹は顔を顰めた。
突っ伏した補助机の上に置いたスマホを涙目で眺めると、
その時虎徹の目にある投稿者の一文が飛び込んできた。
―遠距離恋愛してるので、逢いに来てくれるのが一番嬉しい(20歳:販売)
その欲のない素直な言葉が彼の性格とリンクする。
「これ…あいつ言いそうだなあ。」
虎徹は昼間に見舞いに来たバーナビーを思い出して呟いた。
誕生日に何もしてやれそうにないと詫びた虎徹にバーナビーは微笑んで言った。
「じゃあ、明日ケーキ買ってくるので一緒に食べてください。あと写真も。」
二つ返事で快諾したもののそこでケーキ代を渡すのも味気ないと思い、
虎徹は退院したら改めてお祝いしようなと約束した。
はにかんだような嬉しそうなバーナビーの笑顔が脳裡に蘇る。
お祝いは虎徹さんの特製チャーハンが良いとリクエストしたバーナビーに
虎徹は遠慮しないでもっと旨いもの奢らせてくれよと言った。
「僕の口には虎徹さんのチャーハンが一番合うんです。」
そう言った彼の真剣な表情に虎徹はつい笑ってしまった。
「分かった。腕によりをかけてスペシャルなやつ作ってやるよ。」
虎徹の言葉にバーナビーは心底嬉しそうに笑った。
自分の懐具合を心配して遠慮しているのではないと分かっている。
彼は人に何かしてもらった経験が乏しすぎるのだ。
だから心を許した相手のささやかな手料理を何より喜ぶ。
虎徹がそれに気づいたのはつい最近の事だ。
「セレブなのに安上がりだよなあ、あいつ。やっぱ育ちがいいからか。」
けれど、あれが人にお願いやおねだりをするのがヘタな彼の本心かどうか。
それに、いくら後日のフォローを約束したとはいえ
あの寂しがり屋の兎にひとりぼっちのバースデーをすごさせるのか。
虎徹はぶんぶんと首を横に振った。
「ダメだそんなの!ちょっとでも『楽しかった記憶』を増やしてやりたいよな。」
虎徹はウェブサイトを閉じ、写真フォルダを開いた。
街角のカフェや仕事で行った景色のいい場所でのオフショット。
そのどれもバーナビーが屈託のない笑顔で映っている。
明日という日にもこの取っておきのオフショットを増やしたい。
虎徹は決心した。
「…抜け出してでも逢いに行くか。」
外出許可を取って昼間出かけるほうがいいのだろうが、許可はおそらく下りないだろう。
会社が虎徹のトラブル巻き込まれ体質を見越して外出許可を出すなと
病院側に申し入れたとロイズから聞いている。
「ちゃんとしたプレゼントは後日って約束してるし…。」
食事やプレゼントはこの際退院してからでもいい。
二年前のあの日、ギフトを用意していなかった言いわけを思い出す。
「『プレゼントは俺でいいかな』…ってか。」
今言うと意味が変わるけどなと虎徹は苦笑した。
さすがに自分にリボンをかけていくわけにはいかない。
どこか途中で花でも買っていくか。
一輪か歳の数27本か。
「きっとバニーちゃん感激して泣いちゃうぞ。」
その光景を想像して虎徹は楽しげに笑った。
22:00 バーナビー宅
シャワーを浴びてリビングに戻ってきたバーナビーは
テーブルの上で携帯が鳴っているのに気づいて手に取った。
アンダー一枚なのでサウンドオンリーの設定に変え通話ボタンを押す。
「はい、バーナビーです。ああ…虎徹さんの…。え!?」
電話の向こうで低い声が淡々と響く。
「…分かりました。ではそのように。…はい、失礼します。」
電話を切ったバーナビーはふーっと深い溜め息をつき
携帯を机に放り出すと椅子にどさりと身を投げ出すように座った。
電話の主は虎徹の担当医。
明日ワイルドタイガーが脱走して貴方に会いに行くかもしれないから、
その時はこちらに連絡してほしいという。
「…まさかそんな。」
ありえない、とは言えないか。
「…ありうる…というか彼なら確かにそうするな。」
しょうがない人だと思いつつ、つい頬が緩むのを感じる。
「いっそこっちから電話しようかな。」
ばれてるから大人しくしていてください。
貴方の怪我がひどくなったら僕はどんなお祝いをしてもらっても嬉しくありません。
そう言えば彼はきっと分かってくれるはずだ。
行事ごとを大事にする虎徹が、恋人の誕生日に何もしてやれないのを
ひどく気にしていたのは分かっている。
虎徹はただ一目会っておめでとうと言いたいだけなのだ。
脱走してまで祝おうという気持ちだけで充分嬉しい。
でも今はどうか安静にしてくれとお願いすれば彼は聞き入れてくれる。
バーナビーはそれが最善の策のように思え、携帯に手を伸ばした。
するとまた電話が鳴った。
デジタル表示を見てバーナビーは嫌な予感がしつつも渋々通話ボタンを押した。
「はい、バーナビーです。…ああ、今聞きました。」
<…で…から…貴方は…で…。>
話を聞くバーナビーの眉間にますます皺が寄る。
「そういうことは同意しかねますね。」
<…もう…の…を取って…。>
にべもない相手の言い分にバーナビーは苦虫をかみつぶした顔で頷いた。
「僕には選択権はないということですね。分かりました。」
叩き切るように通話終了キーを押し、バーナビーはまた深い溜め息をついた。
「明日は長い一日になりそうだな…。」
こんな事に加担したくはないが逃げ道が見つからない。
いっそ虎徹に電話して全部ばらした方がいいのではと思う。
だがそれは上が許さないだろう。
「何がアニバーサリー企画だ。人をなんだと思ってるんだ!!」
苛立たしげに携帯を睨みバーナビーは二度目の電話の主を恨んだ。
誰があの女に脱走情報をリークしたのか知らないが、そいつも同罪だ。
この話、受けるしかないか。
いや、むしろ受けて立ってやる。
バーナビーはギリと歯を噛みしめた。
「見てろ、最後の最後に思い知らせてやるからな。」
こちとら伊達に20年を復讐に費やしてきていない。
犯人さえ分かっていれば返り討ちにする方法などいくらでもある。
あの人が放送のプロならこちらはリベンジのプロだ。
「ギリギリまではあんた達の手のひらで踊ってやる。だが…。」
バーナビーは策を練ってその実効性を検証し、いけると頷いた。
「最後に笑うのは僕たちだ。」
彼の想いを弄ぼうとした罰だ。
バーナビーは携帯の受信履歴を呼び出し、
さっきの通話相手の画像をぺチンと指ではじいた。
「後悔させてあげますよ、アニエスさん。」