ひとつ屋根の下
1. だれかの影
「あら、お口に合わなかった?」
ネイサンはワイングラスについた口紅をそっと指で拭いながら、
ぼんやりとした目でグラスの中を見つめるバーナビーを見遣った。
ややあって、はっと我に返ったバーナビーがいいえと首を振る。
「こんな美味しいワインは初めてです。」
バーナビーはそう言ってグラスの中の深い紅を見つめた。
年代物のロマネコンティは色からして違う。
たおやかな仕草でそれを口にするネイサンによく似合うとバーナビーは思った。
「さすがネイサンさん。素敵なお店をご存知ですね。」
バーナビーが素直に称賛するとネイサンはふふっと艶っぽく笑った。
「ハンサムはワイン党でしょ。たまには良いもの飲んでおかないとね。」
タイガーに付き合って安いお酒ばかり飲んでると舌がバカになっちゃうわよぉ。
ネイサンがそう水を向けると、バーナビーは少し困ったように笑った。
「虎徹さんはあれでお酒には拘るんですけどね。ご実家が酒屋さんだし。」
ネイサンはそう、と頷いた。
バーナビーの表情から見て彼の話題は鬼門ではないらしい。
だとしたらそろそろか。
「で、そのタイガーとだけど。何かあったのね?」
ネイサンは慈しみ深い眼でバーナビーをそっと見た。
バーナビーは一瞬目を見張り、ふっと肩の力を抜いた。
「貴女は何でもお見通しですね。」
「そりゃあ、ね。」
あんた達どっちも分かりやすいもの。
そう言ってネイサンは長い指でオリーブの塩漬けを摘まんだ。
指先にあしらわれたネイルの桜色とオリーブの緑。
そのコントラストにバーナビーは少し寂しそうな表情を浮かべた。
「喧嘩?タイガーに何かひどいことでも言われた?」
辛そうに眉根を寄せ、ふっと視線を逸らしたバーナビーに
ネイサンは無理しないでと肩をそっと抱いた。
「言いたくなければこれ以上聞かないわ。でも、言っちゃえば楽になるわよ?」
まあ、あの男の事だもの。
意図的に傷つけたとかではないでしょ。
タイガーの無神経さ、鈍感さとハンサムの繊細さ、打たれ弱さが
一時的にまずい反応を起こしただけで。
ネイサンの言葉にバーナビーの細い眉尻が力なく下がる。
「虎徹さんが…。」
「タイガーが、なあに?」
ネイサンに柔らかく先を促され、
バーナビーは今にも泣きそうな顔を俯け震える声を絞り出した。
「虎徹さんが…浮気してるかもしれないんです…。」
一瞬ネイサンの鋭敏な思考回路がフリーズした。
タイガーが、浮気。
抑揚のない声で復唱したネイサンの眼が驚きに見開かれる。
「はあああ!!??タイガーが浮気ぃぃ!!???」
ドスの利いた地声が静かなバーに響き渡った。
バーテンダーが注意すべきかとこちらを窺っている。
周囲の客の視線が冷たい。
「ファ…ネイサンさん、声が大きいですよ。」
バーナビーは慌てて彼女を窘めた。
ネイサンははっと我に返り、しとやかな仕草で
『失礼』と周囲に謝意を示した。
洗練された客たちはそれ以上二人に何の興味も示さず、
また静かな音楽と押さえられた会話のざわめきに戻っていった。
「で、どういうことなの。なにか根拠があって言ってるんでしょ。」
ネイサンはさっきまでの見守り姿勢を一転、鋭い眼で追及してきた。
バーナビーはワインで唇を湿らせると、小さく頷いた。
最近、虎徹さんが僕に何か隠し事をしていると感じていたんです。
妙にテンションが高いというか、ぎこちないというか。
その嘘くさい感じが減退の時に似てて…。
でも、たぶんまた減退が進んだとかじゃないと思うんです。
なんていうか、虎徹さん嬉しそうっていうか浮ついた感じだから。
嫌いなデスクワークを機嫌よくこなしているかと思えば、
仕事中に携帯が鳴って慌てて出て行ったり。
最初は楓ちゃんかとも思ったんです。
でも虎徹さん、楓ちゃんから電話があったら必ず僕に代わらせるんです。
楓ちゃんにそう言われてるみたいで。
プライベートでも、仕事の後飲みに誘うと
『ごめん、今ちょっとバタバタしててさ。』
って断られるようになったんです。
最初は言葉通り何か忙しいんだろうと思ってたんですが…。
昨日…。
そこまで言うとバーナビーは声を詰まらせた。
ネイサンはすっと手をあげてバーテンダーに何やら注文し、
バーナビーの背中をさすった。
「何か決定的なもの見ちゃったのね?」
バーナビーは俯いたまま小さく頷いた。
長年ウロボロスを追い続けたせいだろう。
バーナビーは勘や予断、思いこみで物事を判断しないという考え癖がある。
パートナーの浮気を疑うからには相応の証拠を既に押さえているのか。
「もう、言っちゃいなさい。一人で抱え込むのが辛いんでしょ。」
ネイサンがそう言った時、バーテンダーがさっき頼んだものを差し出した。
「ほら、これ飲んで。少しは気分が落ち着くから。」
それは鮮やかなライムグリーン色のミントソーダだった。
「綺麗な…緑色…。」
バーナビーの呟きにネイサンはしまったと顔を顰める。
しかしバーナビーはいただきますと言い、それを口にした。
ふーっと長い息を吐き出し、バーナビーは重い口を開いた。
昨日の夜の事です。
僕はグラビア撮影の後、衣装を買い取ってそのまま
シルバーステージのビストロに夕食に出かけたんです。
簡単な変装でしたが、周囲の人は誰も気づきませんでした。
時々やるんです、気分転換で。
誰からも干渉されたくないときなんかに。
ぶらぶらと公園沿いの歩道を歩いて店に向かう途中、
偶然オープンエアのカフェに虎徹さんがいるのを見かけたんです。
…綺麗な、オリエンタル系の女性の方と一緒に。
とてもいい雰囲気で、親しげに談笑していました。
その…ステディな空気がしていたように思ったんです。
僕は思わず虎徹さんからは死角になる位置に席をとりました。
「そう…。東洋系の女性とねえ。それで、何か聞いたの?」
ネイサンはまだ浮気とは言い切れないと思いつつ先を促した。
バーナビーはもう一度ソーダを口にし、哀しそうな声を絞り出した。
二人は楽しそうに家を買う話をしていました。
どうもシルバーステージに物件を探していたようです。
テーブルの上にはたくさんの資料が載っていました。
治安がどうのとか周辺の教育環境がどうのとか。
後々で家族が増えてもすぐには困らない作りが良いとか。
それ以上は聞くに堪えなくて、僕はそっと席を立ちました。
どうやって家に帰ったのかは覚えていません。
ただ、家に帰った途端どっと力が抜けて…。
恥ずかしいけど、もう隠しても意味がありませんね。
あのウサギ人形を抱いて一晩泣いてました。
自嘲の笑みを浮かべ、バーナビーはソーダを飲み干した。
「それ…もう浮気ってレベルじゃないわよ。何かの誤解じゃない?」
ネイサンは憔悴したバーナビーの肩を抱き、そっとそう言った。
「例えば楓ちゃんとこっちで暮らす話が出てるとか。」
バーナビーは弱々しく首を横に振った。
楓ちゃんがスケートやほかの用でシュテルンビルトに来る時は
一週間も前から嬉しそうに騒ぐ虎徹さんです。
同居の話が進んでいれば、僕にもそう言ってくれるはずです。
それに彼女は地元のジュニアハイに進むことが決まっています。
将来的にはともかく、今慌てて住まいを探す必要はありません。
「じゃあハンサム、貴方と住む家をこっそり探しているとか。」
サプライズ好きのあの男ならやりかねない。
しかしバーナビーはまた哀しげに首を振った。
「僕じゃ家族は増やせないし、治安を気にする必要もありません。」
「それは…確かにそうね。」
ネイサンは眉間にしわを寄せ、どう言ったものかと逡巡した。
「もう…終りなのかな…。」
失うことに慣れたはずのバーナビーの眼が潤んでいる。
ネイサンは自分に気合を入れるようにふっと息を吐いた。
あのね、ハンサム。
アタシは物心ついた時から性同一性障害だったの。
男と付き合うのに何の抵抗もない人種ね。
でもタイガーは違う。
女性の奥さんと子供ももうけた。
その彼があんたと付き合ってるってすごい事なのよ?
ノンケの男がいくら美人だからって男に勃つわけないじゃない。
でも、あいつはあんたを抱けるのよね?
そんなあいつのあんたへの想いは上っ面のもんじゃない。
あいつの口からバニーって言葉を聞かなかった日なんてないもの。
今だから言うわよ?
バディ結成直後はあいつ、結構あんたの愚痴言ってたのよ。
それが何?
一カ月もしたら誕生日のサプライズだなんだって。
半年したら俺の可愛いバニーちゃん呼ばわりよ。
聞いてられるかボケ!って思ったわあ。
眼に入れても痛くないってまさにこのことよ。
そりゃ、もしかしたらいつか別れる時が来るかもしれない。
それはあんたが男だろうが女だろうが同じことよ。
でもあいつは、二股かけた挙句にあんたを裏切るように捨てて
ノンケの顔でしゃあしゃあとほかの女と再婚できるようなタマじゃない。
もし、他に好きな女ができたらちゃんと別れてから
次に行くわよ、タイガーなら。
本当は分かってるんでしょ、ハンサム。
ネイサンの熱弁にバーナビーは彼女の眼を見据えた。
ネイサンは優しい人だが、冷静な経営者でもある。
彼女もまた、希望的観測だけで先の展望を語ることはない。
「そう…ですね。」
眼を伏せ、バーナビーは小さく頷いた。
「そうだと、信じたいです…。」
心のつかえが取れた途端、バーナビーは凄まじい眠気に襲われた。
「あらやだ。この子寝落ちしちゃったわ。」
無理もないかとネイサンは肩を竦めた。
聞いた限りではろくに眠れなかったようだし。
カフェの一件以降ろくに食事ものどを通らなかったのだろう。
寝不足と空き腹にアルコール。
寝るなと言う方が無理だ。
「しょうがない仔兎ちゃんね。無防備にもほどがあるわ。」
ネイサンは意味深な視線をバーテンダーに送った。
「あそこ今空いてるかしら。」