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犬も食わない

 

1.後悔先に立たず

 

はああ。

アントニオはまた大きなため息をついた。

最初は遠慮していたが、もはや聞えよがしともいえる音量で。

どうせこの馬鹿は気づきもすまいが。

そんなやりきれない気持ちを飲み下すようにテキーラを飲み干す。

「なんであんなこと言っちゃったんだろう俺…。」

隣でカウンターに突っ伏し、グラスを弄びながら虎徹がまた言った。

「口は災いのもと、後悔先に立たず、覆水盆に返らず。まだあったかな。」

アントニオは高校までを過ごした郷里の諺をずらずら並べた。

すると虎徹ががばっと身を起こした。

「うわあああ!!やっぱりそうなるんだあ!!!零れたミルクは戻らないんだああ!!

突然情けない悲鳴を上げた虎徹に、アントニオは、はあ?と首を捻ったが

暫く考えて、ああと納得した。

「失言が原因で、後悔してもしきれない、関係は元に戻らない…サヨウナラか。」

適当にあげつらった諺が、順番に解釈すると見事に別れの物語になっていた。

そういえば零れたミルクはこっちの諺にそんなのがあったなと思い出す。

「嫌だー!俺は別れる気なんてねえぞー!!

嫌々と頭を振る虎徹に、アントニオは白けた視線を向けた。

「お前はそうでもバーナビーはどうだろうな。」

虎徹にそんなことを言われて、さぞかし傷ついているだろうなと

アントニオは店の中央に据えられた巨大モニターを見た。

録画と思しき番組でそのバーナビーが万人受けする笑顔を振りまいている。

表向きは嫌味なほど如才ない青年が

実はとても不器用で脆く繊細だということは

今ではアントニオですら知っている。

「あいつが今、あんな風に笑ってるとは思えんがな。」

正義の壊し屋の恋人が硝子のハートの持ち主とは皮肉なものだ。

思えば今まで壊さなかったのが奇跡だったのかと

アントニオは苦渋の表情を浮かべた。

「お前、ほんとやっちまったな。」

 

虎徹は暫くモニターを見つめ、ああとまた情けない悲鳴を上げた。

「俺のバカバカバカ!!

「お前が馬鹿なのは十分知ってる。」

「おま!ちょっとは慰めようとか思わねえ!?

「思わん。むしろお前にそんな暴言を吐かれたバーナビーを慰めたいぐらいだ。」

「アントニオ!バニーの落ち込みに付け込んで誑かしたらお前…。」

「…馬鹿の極みだな。」

アントニオはもう帰ろうかと思ったが、馬鹿な親友を捨て置くこともできず、

苦り切った顔でバーテンに酒を頼もうと空のグラスを振った。

 

ことの始まりは下らないことだった。

ただ、お互いの負けず嫌いとちょっとした欲求不満、

このところ積み重なっていた疲労が口論をエスカレートさせた。

だが元来、虎徹は口論は苦手だ。

一方バーナビーは頭の回転が速く口が立つ。

口喧嘩は実戦のように互角とはいかず、

虎徹が押されるのにそう時間はかからなかった。

そして虎徹はとうとうそれを言ってしまった。

「お前のそういうとこ、重いんだよ!!

柳眉を吊り上げ丁々発止と虎徹の口撃を倍返しでやりかえしていた

バーナビーの眼が大きく見開かれた。

虎徹はそう言った瞬間、しまったと思った。

興奮で紅潮していたバーナビーの頬がさあっと青ざめていく。

やがて辛そうに眉をよせ、視線をふいと逸らした。

「…そう、ですか。分かりました…。」

バーナビーの声が震えている。

「あ…いや、その…。」

虎徹は動揺でいっそう言葉がうまく出ない。

「バニー、違うんだ…。」

「では、どうぞ自由になってください。」

バーナビーは眦を紅く充血させ、掠れる声で言い放った。

「だから違うって!俺はただ…。」

「貴方の重荷になるのは本意ではありません。」

虎徹の言葉に一切耳を貸そうともせず、

そう言うなりバーナビーは身を翻して走り去った。

それが昨日の昼休み。

以降、もともとバーナビー単独のスケジュールが詰まっていたことと、

そんな時に限って鳴りもしないPDAのおかげで

虎徹はバーナビーと顔を合わさないまま一日と半分が過ぎた。

ここまでの音沙汰のないのは今年の最高記録だ。

 

「重い…か。」

アントニオはその一言を反芻した。

「あいつにはかなり禁句だな。」

虎徹は哀れささえ感じるほどしょんぼりと項垂れ頷いた。

バーナビーが極端な人づきあいをすることは承知していた。

時にその心の許し方がある種の依存になることも、

それが幼い時から過酷で孤独な生き方をしてきたせいだとも。

成熟した大人の心のありようではないとは思う。

でも今はそれでもいいと虎徹は思っていた。

4歳以降はやく大人にならざるを得なかったバーナビーが

自分には心を許し、大人になりきれない部分を晒してくれるのならと。

いつかバーナビーの「()()()()遺された(チャイ)幼い()子供()

今までの人生で足りなかった愛情を受けることで昇華されるだろうと。

そう思って見守るつもりだったのに。

なのに、口論の最中にその部分を重荷だと口走ってしまった。

たとえ本心ではなかったにしても、致命的な失言だった。

そこまで徹底的に傷つけるつもりなんてなかったのに。

「どう考えても、俺の方が言いすぎたよなあ。」

虎徹ははあと重い息を吐いた。

 

「それでおまえ、いつまでここで呑んだくれてる気だ。」

アントニオはいいかげんイラっとして虎徹の背を大きな手で打った。

「謝りに行け。お前の方が大人なんだから、そこは折れろ。」

「そう…だな。バニー出てくれるかなあ。」

虎徹は携帯を取り出しバーナビーのアドレスを呼び出した。

何度も謝ろうとして携帯に電話をしたが

いつまでたっても留守電のままだった。

メッセージを残し、メールも打ったがなしのつぶてだ。

PDAなら反応はあるかもしれないが、

プライベートの、しかも揉め事に使っていいとは思えない。

「でなけりゃ家に行け。土下座でも何でもしてこい。」

「お前…簡単に言うなよ。俺んちと違うんだぞ。」

虎徹は苦笑して思わず想像した。

自宅に赴いて玄関で土下座。

それも考えたが、あのセキュリティの高いマンションで

一歩間違えたらとんでもなく厄介なことになる。

まさか通報まではしない…と思いたいが。

極端から極端へ跳ぶ性格だ。

やりかねないとも思うが、それでも誠心誠意謝るしかない。

「とりあえず、俺行ってくるわ。」

虎徹は漸く腹を括った。

アントニオは頑張れよとグラスを掲げた。

 

その時だった。

二人のPDAがけたたましく鳴った。

 

→続く