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氷の指輪

 

1.誤認

 

「とも・・・え・・・?」

虎徹は目の前にいるその人を見て大きく眼を見開いた。

もっとも驚愕に瞠目したのはその人も同じだったが。

「友恵…お前、今までどこに行ってたんだよ…。」

今にも泣きだしそうな顔で虎徹は愛しい人を抱きしめた。

抱きすくめられたその人の困惑と動揺に気づきもせず。

「あ…あの!!

「友恵…友恵…!!

自分より高い位置にある頭を掻き抱き、虎徹は絞り出すような声で

何度も何度も死んだはずの妻の名を呼んだ。

「もうどこにも行くなよ…。ずっと、一緒にいような?

涙交じりの声に彼が長い間耐えてきた孤独と悲しみを感じる。

抱きしめられたその人は顔を悲痛に歪め、こみ上げる嗚咽をぐっと堪えた。

自分は貴方の妻ではないと真実を言えば彼は壊れてしまう。

そう思わせる危うさが今の虎徹にはあった。

「友恵…よく、帰ってきたな…。」

「はい…。もう、何処にも行きません。あな…た…。」

震えるテノールに周りにいた仲間が痛々しげな面持ちで二人を見守る。

ただ一人、見ていられないとカリーナだけは二人から目を背けた。

「虎徹…お前!!

アントニオが何か言おうとしたその矢先、『友恵』は振り返り

哀しげな眼を伏せ首を横に振った。

「いいんです…。今は僕を『友恵さん』だと思わせてあげてください…。」

引き攣る声でそれだけ言うとバーナビーはぎこちない手つきで

虎徹の頭を優しく撫でた。

「寂しい思いをさせてごめんなさい…。」

そう言って俯き、慈しむように『夫』のブルネットの髪を梳く。

「…ごめんなさい…。」

ふわりと揺れた金の髪が彼の表情を衆目から覆い隠した。

 

 

―事件から一時間後。

虎徹はバーナビーから報告を受けたロイズに半ば強制的に病院に連れてこられていた。

「ちょっと、ロイズさん!俺どっこもおかしくありませんて!!なんで病院に…。」

虎徹の抗議にロイズはハアと疲れた溜め息をついた。

「いいから黙って検査受けてくる!嫌なら辞めても良いんだよ?

久しく聞いていなかったそのフレーズに虎徹はぐっと唇の端を噛んだ。

「分かりましたよ。ったく、なんで俺がこんな…。」

「じゃあ聞くけど、君なんでバーナビー君の事をトモエさんって呼んでるの。」

その言葉に虎徹はきょとんとした。

「誰すか、バーナビーって。」

その言葉にロイズは聞いていた通りだと顔を顰める。

「ほら、やっぱり要検査じゃないか。さっさと行った行った!!

「意味分かんねえっすよ…。」

ぶつぶつと文句を言いながら虎徹は看護師に先導され検査室に入っていった。

硝子窓の向こうでMRI検査の説明を受ける虎徹の姿にロイズはやれやれと肩を竦めた。

あの検査は時間が掛かる。

これで暫くは静かに対策会議ができるなとロイズは

いきなり降ってわいた問題に痛む眉間を指で揉んだ。

「…で、一体何がどうなってるの?バーナビー君。」

ロイズが首を巡らせ背後を振り返ると、

憔悴した面持ちのバーナビーが長い廊下の角から姿を現した。

「トモエって虎徹君の亡くなった奥さんでしょ。どうして君がその『トモエさん』なの。」

ロイズは見るからに疲れ切った様子の部下に椅子を勧め、

側にあった自販機でコーヒーを買うとそっとバーナビーに差し出した。

バーナビーは礼を言ってそれを受け取り、一口啜って重い息を吐く。

「…実は…。」

バーナビー自身まだ混乱する頭でつい小一時間ほど前の事を想起し、

ゆっくりと話しはじめた。

 

さっきジャスティスタワーでちょっとした小火があったんです。

僕と虎徹さん、ほかに何人かのヒーローがトレーニングセンターにいたので

要請を待たずただちに避難誘導と救助に当たりました。

その時虎徹さんが司法局のトイレの近くで年配のご婦人を救助しました。

そのそばの給湯室が出火元だったので煙が酷かったそうです。

ご婦人は脚が弱く逃げ遅れたそうで、

虎徹さんが背負ってジャスティスタワーの10階から非常階段を駆け下りました。

そうしたら、ご婦人がタワーの外に避難するとこう言ったんです。

「ありがとうワイルドタイガー、お礼に私の能力で貴方の願いを叶えましょう。」…と。

 

そう言ってバーナビーは少し辛そうに眉根を寄せた。

「で、それが亡くなった奥さんとの再会かい?ただ現実を誤認させているだけじゃないか。」

ロイズはバカバカしいと言い捨てた。

君や虎徹君、それに亡くなった奥さんにも失礼なうえに有害な能力もあったもんだ。

それでお礼をした気になってるんだから性質が悪い。

司法局にその女性をきちんと登録させないと。

現にこうして、人に迷惑をかけているんだから。

畳みかけるようにそう言ってふとロイズはある疑問が浮かんだ。

「ところでその場にはほかに女性はいなかったのかい?

上司の問いの意図を汲みきれずバーナビーは困った顔で首を横に振った。

「ブルーローズさんがいました。それが何か。」

ロイズはうーんと首を捻った。

「それなら何故彼女じゃなく君をトモエさんだと認識したんだろう。」

そう言われてみればそうだ。

性別も違い体格も似ても似つかない自分より、

年齢や人種は違えどカリーナの方が誤認対象としては遥かにふさわしい。

もっとも、彼女にこの試練はあまりに酷に過ぎるが。

ある意味、自分でよかったのかもしれないとバーナビーは内心でそう思った。

「バーナビー君、どうかしたかい。」

黙り込んだ部下にロイズは気遣わしげに声をかけた。

「あ…いえ。誤認の理由は単に物理的に最も近い場所にいたのが僕だったからかと。」

そんな仔アヒルの擦りこみじゃあるまいし、初めに見たものを誤認なんて。

ロイズはそう言いかけて考えを改めた。

「ああ…まあNEXT能力だしね。男を女と思ってもありうるか。」

そもそも死者を生きていると思いこませたんだ。

男を女と思う程度の誤認など、おまけみたいなものなんでしょ。

ロイズの言葉に頷いたバーナビーは辛そうに検査中の虎徹を見つめた。

「虎徹君の中では奥さんが生きてて、側に君がいなくても疑問がないというのは…。」

「もしかしたら5年以上前に精神が逆行しているのかもしれません。」

楓について言及しないのは新婚当時に記憶が戻っているのか。

だとしたら10年近くの時間が消失したことになる。

バーナビーの推論にロイズは首を捻った。

「近くにいたブルーローズ君は正確に認識できたの?いろいろ齟齬があるねえ。」

なんか、言葉は悪いけど認知症みたいだねとロイズは言った。

バーナビーは暫く考えて俯いた。

「認知症というよりまるでパソコンのフォルダの【名前を変更する】みたいです。」

 

虎徹さんの脳内にある【バニー】フォルダを【友恵2】にでも

名前を変更してしまったしまったみたいな。

本来の【友恵】フォルダはおそらく無傷でしょう。

そして虎徹さんの脳内に【バニー】のフォルダがないから僕を認識しない。

他の人の記憶は当然無傷です。

忘れられたのは僕一人のようですから…。

『誰すか、バーナビーって。』

あの言葉…正直言ってかなり堪えました…。

 

絞り出すような声にロイズは大丈夫かいとバーナビーの背を撫でた。

「すみません…。まだ、混乱してて…。」

「当たり前だよ。無理しなくていいからね。」

大丈夫ですと息を整え、バーナビーは背筋を伸ばした。

 

会社としての当面の懸案としては

虎徹さんのヒーロー認識がどうなっているのかですね…。

トップマグにいた時の記憶なのか

アポロンメディアに所属している認識はあるのか。

そうであればソロ活動している認識なのか。

その辺は不明ですが…。

 

ロイズはうーんと首を捻った。

「さっきの様子では私を上司と認識していたね。アポロン所属は分かっているようだ。」

「そうでしたか…。」

バーナビーはロイズの言葉に肩を落とした。

だとするとソロでやってる認識なのか。

ぶつかったりしながらも二人三脚でやってきた大切な絆を踏みにじられた。

そう思うと今になってあの老女に激しい憤りを感じる。

 

 

「で、能力の持続時間はどのくらいなの。」

長引くと今後が面倒だなとロイズは手帳を繰った。

「それが…期間や解除条件がさっぱり分からなくて…。」

バーナビーはやりきれないといった表情で言葉を濁した。

「そうか。」

ロイズはスケジュール表を閉じまた重い溜め息をついた。

「君と一緒の仕事はリスケするよ。単独の取材は大丈夫そうだけどね。」

「問題は…出動ですね…。」

自分を友恵さんと思っている以上、一緒に出動はできないでしょう。

バーナビーは困り果てた顔でロイズに言った。

「となると…虎徹君をしばらく入院させるしかないか。」

医師の口から適当に精密検査を要するとでも言ってもらって、

彼を事実上ここに軟禁するしかないね。

ロイズはそう言って医師に話をつけてくると席を立った。

 

一人になった途端、バーナビーの心に切りつけるような痛みが走る。

「虎徹さん…どうして…。」

人気のない病院のベンチでバーナビーは俯き両手を顔を覆った。

自分に向けたことのない、弱く柔らかな笑み。

ずっと一緒にいようなという言葉が胸に突き刺さる。

「ほんとに愛してたんだな…奥さんの事…。」

分かっていたはずなのに、まざまざと見せつけられて胸が軋む。

虎徹の『妻』を見る目が、その言葉が、じりじりとバーナビーを追い詰める。

「僕は友恵さんじゃない…。僕を…そんな目で見ないで…。」

小さな呻き声が静かな廊下に響いた。

「貴方の願いは…僕では…。」

願い!?

はっとバーナビーは顔をあげた。

『貴方の胸に秘めた願い事を一つ叶えてあげる。』

あの時、老婦人は確かにそう言った。

小さな体から立ち上る発動光に虎徹が咄嗟に身を引いたが、

婦人は構わず彼の腕を掴んだ。

『貴方の願いが叶えば効果は消える。魔法みたいでしょ?

「そうだ!!確かに彼女はそう言った!!

ならば、虎徹の願いとやらが成就すればこの残酷な誤認は解消される。

打ちひしがれていたバーナビーの明晰な頭脳がみるみるフル稼働する。

「じゃあ願いってなんだ。少なくとも友恵さんと再会することそのものじゃない…。」

再会が望みなら自分に彼女の幻影を見た時点で効果は消失する。

友恵さんと何かしたかったか、あるいは何か伝えたいことがあったか…。

「なんにしても…友恵さん役を当面は続けないといけないようだな…。」

誤認している以上、自分がその代役を務めれば虎徹は正気に戻るかもしれない。

その代償に自分の心がズタズタになるかもしれない。

だが、とバーナビーは腹を括った。

「虎徹さんをいつまでも虚像の世界に閉じ込めるわけにはいかない。」

過去の因縁に囚われていた自分を彼が解き放ってくれた。

だったら、今こそ自分も彼を過去の軌から解放しなくては。

「そのためなら何だって…。」

 

その時PDAが鳴り響いた。

―ボンジュール、ヒーロー!!

事件発生にバーナビーは立ち上がった。

同時に慌ただしい足音が検査室から飛び出してくる。

「バニー!行くぞ!!

虎徹がバーナビーを見て強い口調で言った。

状況が把握できずバーナビーは呆気にとられて虎徹を見つめた。

「おいバニー!聞いてんのか!!出動だ!!

「は、はい!!

バーナビーが慌てて走る虎徹の背をすぐに追いあげた。

「虎徹さん、能力が切れたんですね!!

「は?能力って何のことだ?てか、俺なんで検査されてたんだ!?

走りながら問い返す虎徹の眼はいつも通りだ。

<時間経過で解けるものだったんだ…。よかった…。>

人騒がせなとバーナビーは吐き捨てるように呟いた。

「バニー?

「なんでもありません。急ぎましょう、虎徹さん!

バーナビーはほっと安堵の息を吐き、正面を見据えて虎徹とともに走った。

バニーと自分を呼ぶ声が今はこんなにも頼もしく感じる。

 

トランスポーターに駆け込みスーツを装着。

Wチェイサーを駆って事件現場へ。

いつも通りの出動、いつも通りの息の合った連携。

「よっし!犯人確保!!

「お疲れ様です、タイガーさん!!

ハイタッチで互いの健闘をたたえ合う。

何事もなかったような虎徹の様子にバーナビーは心底安心した。

不愉快な一件だったが、どうやら終わったことのようだ。

「あー汗だく。バニー、スーツ脱いだら飲みに行こうぜ。」

「いいですね。今日はとことん飲みたい気分です。」

「あれ、珍しいな。何かあったのか?

「まあいろいろとね。」

「なんだよ、もったいぶらねえで教えろよー。」

絡んでくる虎徹の若干暑苦しいところもいつも通りだ。

<やれやれ、今日の件は飲んで忘れるか。酷い一日だった。>

上品にワインをいただくより虎徹のようにビールを一気に呷りたい気分だ。

バーナビーは脱いだメットを片手にトランスポーターへ戻ろうと歩き始めた。

 

 

だがこの時バーナビーはまだ知らなかった。

残酷な呪いはまだ解けていないことを。

 

 

続く