2.氷の指輪
「聞いたわよ。大変だったそうね。」
トレーニングセンターに来たバーナビーを見るなり
ネイサンは駆け寄り抑えた声で労るように言った。
「ちょっと顔色悪いわね。大丈夫なの?」
ネイサンにウソをついても見抜かれる。
バーナビーはとっさに取り繕おうとしたがそう思いなおし観念した。
「昨夜あまり眠れなくて…。」
バーナビーは正直に言い困ったように笑った。
「バーナビー!タイガーはどうなったの!?」
カリーナとアントニオもトレーニングの手を休め二人の側に駆け寄った。
「今日はお二人にその件の経過報告に来ました。」
バーナビーの言葉にアントニオも顔を曇らせる。
「経過ってことは、じゃあ虎徹はまだ…。」
「ハンサムの事、死んだ奥さんだと思ってるの!?」
頷くバーナビーに仲間はどう言っていいものかと声をかけあぐねる。
「昨日うちの上司が虎徹さんを病院に連れて言ったんですが…。」
バーナビーはできるだけ冷静に事の次第を説明した。
病院では脳に異常は見られないこと。
『誰すか、バーナビーって』という発言。
そしてその後思い出した老婦人の『願いをかなえる魔法』のこと。
「じゃあ、タイガーの誤認とやらはまだ終わってないわけね。」
気遣わしげにバーナビーを見てネイサンは困ったわねと眉根を寄せた。
「何が魔法よ!タイガーにハンサムのこと忘れさせるなんて酷過ぎるわ!!」
「落ち着け。その女性もこの結果を予期していたとは思えん。」
恩を仇で返すなんてと憤慨するカリーナをアントニオがやんわりと宥めた。
「それで、解除の条件は『タイガーの願いが叶うこと』なのね…。」
ネイサンは随分ひどい魔法…むしろ呪いだと思った。
ある意味正気を失った虎徹はともかく、
亡き妻の身代りにされるバーナビーが不憫すぎる。
「それで、タイガーの願いって何なの?」
カリーナの問いにバーナビーは哀しげに首を横に振った。
「誤認されているのをいいことに、直接聞きだそうとしたんですが…。」
バーナビーは昨夜虎徹の家で妻のふりをしながら
なんとか願いが何なのか調べようとした顛末を話した。
慣れたはずの虎徹の家で過ごす、何とも居心地の悪い一夜だった。
優しいまなざし、温かい腕。
でもそれは自分を素通りして見る別の女性に向けられたもの。
自分が無視される悲しみを押し隠し、
心の底で嫉妬と羨望さえ感じる彼の愛妻を演じる。
ひどく辛い作業だった。
だがこんな妄想状態、友恵さんだって本意じゃないはずだ。
貴女のためにもきっと打ち破ります。
バーナビーは室内に居並ぶ友恵の写真にそう誓い、懸命に虎徹に寄り添った。
「ねえ、あなたの今の一番のお願いってなあに?」
虎徹は幸せそうに妻を抱き寄せ、それはそれは優しい声で言った。
俺の願い?
そうだな、俺とお前でずっと一緒にいられたらそれだけでいいよ。
夏休みが終わったら楓も実家からこっちに戻ってくる。
そしたらまた親子三人で暮らせるな。
ああそうだ…。
そろそろ楓に兄弟が居てもいいかなって、そういう願いはあるな。
俺の望みはそれくらいだよ。
「僕を抱きしめてすごく幸せそうに…言ったのはそれだけでした…。」
虎徹の言葉をそのまま話すバーナビーの背を褐色の手が優しく摩った。
「よりによって第二子とは…。それは僕では…。いきなり詰みですね。」
自虐的にそう呟いたバーナビーをネイサンは抱きしめた。
愛する人の子を身ごもれない哀しみは一番よく分かる。
「もういいわ…。辛かったわね。」
「まだ、それがタイガーの一番の願いときまったわけじゃないわよ!!」
カリーナはそうであってほしいと言わんばかりに叫んだ。
「だってそれ、すごく思い付きっぽいもの!!心残りはきっと他にあるわよ!!」
カリーナの言葉にバーナビーは愁眉を開いた。
心残り。
その考え方はなかった。
だが確かにそのほうが説得力がある。
生き返ったらしたいことなんて普通は考えない。
考えるのはああすればよかったこうすればよかったという
未練と後悔に満ちた「たられば」だ。
「奥さんが生きている間に何々したかったというような…?」
カリーナがバーナビーの問いに頷く。
「例えば奥さんと行きたかった場所とか、したかった事とか。」
そういうことならとネイサンはアントニオに視線を遣った。
「俺を見るなよ。そんな話、虎徹からは聞いたこともない。」
「なによ、あんた高校からの腐れ縁でしょ!?」
肝心な時に親友スペック役に立たないわねとネイサンは言い捨て、
なんだよモウとアントニオは唇を尖らせた。
「いっそ虎徹とオリエンタルタウンに行ってみるか?」
アントニオの提案にバーナビーは首を振った。
「この惨状をご実家のご家族に見せるわけにはいきません。」
確かに手掛かりはあるかもしれません。
ですがリスクが大きすぎます。
ご実家のご家族も心配するでしょうし。
娘さんにヒーローだと伏せている以上、僕が一緒にいる説明もつかない。
まして父親がおかしくなっているような光景、
年頃の娘さんにはあまりにショックが大きすぎます。
バーナビーの言葉にアントニオもそうかとうなだれた。
「ねえ、ちょっと気になったんだけどさあ。」
カリーナはずっと感じていた疑問を口にした。
「出動の時はどうなの?今日も普通にコンビプレーしてたよね。」
そういえばとネイサンとアントニオも顔を見合わせる。
「確かにさっきはいつものタイガーに見えたけど…。」
カリーナはどうなってるのとバーナビーを見上げた。
バーナビーは少し疲れた顔で首を横に振った。
「ワイルドタイガーは僕をちゃんと認識してるんです…。」
コールが鳴ってワイルドタイガーのスイッチが入った途端、
ヒーローとして行動している間は何事もなかったかのようなんです。
でもトランスポーターに戻ってスーツを脱いだ途端、
虎徹さんの僕に対する認識がバニーから友恵さんに変わるようです。
それでいて、その友恵さんが会社やトランスポーターにいる不自然は
虎徹さん自身全く気にしていないようで…。
うちの上司はその状態を認知症みたいだと言いました。
不適切な表現でしょうが、無理のある、それでいて自分に都合のいい
状況設定を丸ごと受容しているこの現状ではあながち的外れともいえません。
もっとも認知がめちゃくちゃなのは僕と友恵さんに関してだけで
皆さんについては正しい認識がなされているようですが。
バーナビーの説明と見解に一同はああと頭を抱えた。
「なんにしてもアンタにはあまりに過酷な魔法よねえ…。」
なんとか能力を解く手立てを探さなくては。
ネイサンは懸命に考えを巡らせた。
<この子…タイガーのためなら自分を殺してでも友恵さんになりきろうとするわ…。>
たった一日でこの疲れた顔だ。
長引けばバーナビーの心がもたない。
せめて虎徹から引き離してどこかで休ませることができればいいのだが
だが虎徹がそれを許さないだろう。
“人妻”を連れ出して一人にさせる適当な口実が思い浮かばない。
「ところでカリーナさんにお願いがあるんですが。」
ふいにバーナビーは改まってカリーナに真剣な眼差しを向けた。
「な、何よ急に…。」
バーナビーはカリーナの前にそっと自分の左手を差し出した。
「僕の薬指に氷で指輪を作ってくれませんか。」
その申し出にカリーナはええっと眼を見開いた。
「こ、氷の指輪って…。そんなものつけてどうするのよ。」
「昨夜虎徹さんにどうして結婚指輪をしていないのかと聞かれて…。」
バーナビーは困惑と哀愁を帯びた目を伏せて言った。
「なあ、どうして指輪外してるんだ?」
すごく寂しそうな顔でそう言いだしたんです。
顔も声も服装すら認識していないようでしたので、
どうしてそこだけ事実との相違に気がついたのか分かりません。
それほど彼にとって大事なものだったということでしょうか。
「どっかになくしちゃったのか?」
哀しそうな声でそう言われてつい、
修理に出していると嘘を言ってしまったんです。
「なんだそうか。びっくりしたよ。」
心底ほっとしたような声で言われて…。
これは何か付けないとまずいなと思って。
「何か適当に代替品をつけたらどう?ハンサムならプラチナでも買えるでしょ。」
カリーナは氷のリングなんてつけてたら凍傷になっちゃうわよと
バーナビーの手をそっと押し戻した。
だがバーナビーは寂しそうに笑い、それはできないと言った。
「カリーナさんなら買えますか?彼に貰ってもいない、『愛の証』を自分で?」
その言葉にカリーナははっとした表情になりすぐに俯いた。
「ごめん…。そんなつもりじゃ…。」
恋や結婚に夢を見る乙女は自分の言葉の残酷さにすぐ気がついた。
愛する人が他の女性と揃いでつけていた指輪を、
もしかしたら自分は貰うことのないかもしれないそれを
こんな事情とはいえ自分で買って身につけなければいけないなんて。
<タイガーとの結婚指輪の偽物を自分で買ってはめる…?>
カリーナは自分がその立場だったらと思うと涙が浮かんだ。
「ほんとごめんなさい…。」
「大丈夫、分かってます。貴女は氷の指輪が無茶だと言いたかっただけだ。」
バーナビーは笑ってカリーナに気にしないでと言った。
その言葉と笑みにカリーナはほっとした表情を浮かべた。
「本当は僕も同じこと考えました。」
ここに来る前ゴールドメダイユの店に行ってみたんです。
僕が一人で行ってプラチナリングを左の薬指に試着しても
顧客の秘密として絶対に口外しないと思えるところに。
でも、店員の方がお似合いですよとか相手の方もお気に召しますよなんて
言うたびにどんどん空しくなっていって。
「裏にお名前や日付の刻印もできますよ。」
そう言われても二人の結婚記念日なんかいつか知らないし。
裏にK&Tと刻んだ指輪?
はは、嵌めてたら分からないからいっそ&Bって彫ってやろうか。
そう思ったらなんだか泣きそうになったんで、その前に店を出ました。
まともなものを買う気にはもうなれなかった。
だったらと思って軽い変装をしてシルバーのショッピングモールで
安物のシルバーリングを見てもみましたが…。
虎徹さんが実際に指にしている物を思い出すと「いかにも偽物」感が
今の僕の現状とあまりにもハマりすぎてて今度は何故か笑ってしまいました。
ネイサンはその話にハアと溜め息をつきバーナビーを抱き寄せた。
「あんたって子は…。どうしてそこまで自分を追い詰めるの。」
きっと元々から彼の指輪に対しては寂しさを感じていたんだろう。
それがここにきて致命的にバーナビーを傷つけた。
<可哀そうに。これに関しては半分はタイガーの責任よね。>
ネイサンは自分の手持ちの指輪を貸せないかと
バーナビーの手を見たが何も言わずに諦めた。
ネイサンの方が体格がいい分、指もワンサイズ以上ゆうに太かった。
バーナビーの指輪の話を聞いてわが身に置き換えて考えていた
カリーナはうっすら滲んだ涙を拭って頷いた。
「分かった…。氷の指輪、作ってあげるわ。ちょっと痛いのは我慢してよね。」
カリーナは自分の右手でバーナビーの左手をとり、
彼の薬指の上にそっと自身の左手を翳した。
パキパキと音を立て、バーナビーの左手薬指の付け根に
仄かに冷気を放つ青白い指輪が嵌った。
「ありがとうございます。とても綺麗だ。」
バーナビーはほんのりと青く光る艶やかな指輪をそっと撫でた。
「凍傷になっちゃうから、指のケアはくれぐれも気をつけてね。」
カリーナの心配そうな言葉にバーナビーは頷いた。
「はい、気をつけます。よかった、これで何とか虎徹さんをごまかせる。」
切なげな笑みを浮かべるバーナビーにネイサンはまずいと危惧を抱いた。
このまま放っておいたら一人でこの苦境を抱え込みそうだ。
ネイサンはバーナビーの肩にそっと手を添えた。
「この性質の悪い呪いを解く方法は皆で考えてみましょう。」
「私も協力するわ!タイガーだってきっとこんな事望んでない!!」
「俺も虎徹の母ちゃんとかに心残りの心当たりそれとなく聞いてみるよ。」
バーナビーは皆の言葉に胸が詰まる思いがした。
一人で闘うことには慣れている。
でも、こうやって支えてくれる仲間がいることが今はこんなにも心強い。
バーナビーは素直に頭を下げた。
「ありがとうございます…。」
ちりちりとした痛みが薬指から沁みわたってくる。
<この痛みさえあれば…。>
バーナビーは痛む指を愛しげに撫でた。
その姿を見てネイサンは疑問を感じていた。
<でも市販の指輪を買うのが辛いからといって、なぜ氷の指輪なんて…。>
マリッジリングを自分で買って一人でつけるのが辛いのは分かる。
だが、物はなんでもいいのならアポロンの衣装部にでも適当な理由をつけて
小道具としての指輪を借りてくる方が精神的に楽ではないのか。
それに指輪の放つ凍気の痛みを甘受するようなあの表情。
<…もしかして…。>
その理由に思い至ったネイサンはバーナビーを見てやれやれと溜め息をついた。
「元に戻ったらタイガーにお仕置きしなくちゃね。」
その言葉にバーナビーがぷっと吹き出した。
「お手柔らかにしてあげてください。このことは彼のせいじゃないんです。」
「さっと表面を炙るくらいにしておくわ。」
その言葉にカリーナもくすくす笑う。
「私が消火してあげるから心配しないで。凍っちゃうかもしれないけど。」
二人の言葉にアントニオが女子怖いと隅で縮こまった。
「でも、いつまでもごまかし続けるわけにもいかないわね。」
事が長丁場になればバーナビーが疲弊するだけだわとネイサンは心配げに言った。
「ええ、何とか正気に戻す術を考えないと。」
自分の事はいいが、虎徹が能力の支配下に置かれているこの異状を打破したい。
バーナビーはそう言って決然と前を向く。
「ほんと、何したら気が済むんだろうタイガー…。」
「いっそぶん殴ったら目ぇ覚めないかな。」
「能力かけたお婆さん引っ張ってきて解除できないかしら。」
「一応司法局には報告していますが、どこのだれかも分からない状況で…。」
「そう…。」
三人どころか四人寄っても良い知恵は閃かなかった。
それでもくじけているわけにはいかない。
バーナビーは何としても虎徹をこの能力から解放してみせると
氷の指輪に手を添え心の内で固く誓った。