3.決意
一瞬ふっと視界が暗転した。
<あ、まずい…。>
膝から落ちるように倒れかけたバーナビーは
ふいに誰かの手に支えられるのを感じた。
「すみません虎徹さ…。あ。」
バーナビーは自分を支えてくれた手の主を見て慌てて姿勢をただした。
「ワイルドタイガーでなくて申し訳ない。大丈夫ですか?」
「はい。失礼しました、ペトロフ管理官。」
ユーリは気にしないでいいというように片手を挙げ、
側にあったベンチにバーナビーを促した。
「少し顔色が悪いですね。自己管理の行きとどいた貴方らしくない。」
その言葉に自己管理がなっていないと指摘されたように感じ、
バーナビーは素直に頭を垂れた。
「面目ありません。少し厄介事があって疲れていたようです…。」
「NEXTがらみですか?」
ユーリは今しがたバーナビーが出てきた司法局の部署プレートを見上げた。
「NEXT管理課…。犯罪者やその予備軍の登録を見てきたのでしょう?」
ユーリの指摘にバーナビーは小さく頷いた。
といっても犯罪者ではないのですが…。
先日の火災事故でワイルドタイガーが要救助者の能力を受けてしまいまして。
能力者本人は助けてくれたお礼だと言って、悪気はなかったようなのですが…。
それ以降、彼は僕を亡くなった奥様だと誤認するようになったんです。
出動時にはなぜか正常に戻るのですが、任務を離れた途端また僕が分からなくなる。
どういうわけか、誤認されているのは僕だけのようです。
丸二日様子を見ましたが、時間経過で解除される様子はありませんでした。
では何が解除条件なのか知りたくて、
それでその人が登録されていないか確認に来たんですが…。
「登録されていなかった?」
バーナビーはユーリの問いに頷いた。
「聞いた限りではかなり迷惑な能力ですね。何の記録もないとは…。」
司法局に登録されているのは犯罪者のみでなく、
突発的に顕現したNEXT能力が制御できず暴走するなどして
警察や消防、ヒーローの厄介になった悪意なき一般市民も相当数登録されている。
お礼と称してヒーローの精神を幻惑させるとはかなりの能力者だ。
本人に悪気がないからこそ数多のトラブルを引き起こすケースもある。
その婦人のように厄介な能力をその自覚もなく他者に使うような人間が、
今まで全くなんのトラブルも起こしていないとは考えにくい。
何の足掛かりもないのは不自然だなとユーリは眉を顰めた。
「私の方でも一度調べてみましょう。」
ユーリの言葉にバーナビーは驚いたように眼を瞠った。
「あまり大きな声では言えないのですが…。」
まれに厄介事を起こしても登録を免れるNEXTがいるんですよ。
市会議員など有力者の後ろ盾を持っている人など…ね。
ですが私はそういう法の下の不平等を好みません。
そういう輩の中には後ろ盾を笠に着て犯罪に走るものもいる。
ゆえに登録を免れた揉め事のNEXT能力当事者は
部下を通じて概ね把握しています。
バーナビーさん、件の要救助者のだいたいの年齢と性別、
能力について何か語っていなかったかを教えていただけますか?
私のプライベートデータベースに該当者がいるかもしれません。
バーナビーはユーリに精細な情報を伝え、ゆっくりと立ち上がった。
「どうかよろしくお願いします。」
ユーリは柔らかく笑いバーナビーの肩に手を置いた。
「ワイルドタイガーは破壊癖が困りものだが優秀なヒーローです。当局は彼を支えますよ。」
バーナビーは漸く安心した笑みを見せた。
「何か分かったら会社の方に連絡しておきます。貴方はきちんと休養をとるように。」
「ありがとうございます。」
これで何か掴めるといいのだが…。
バーナビーがジャスティスタワーを出た時、PDAが鳴り響いた。
バーナビーはコールに応じ現場へ走りながらトランスポーターのピックアップを依頼した。
「出動時が一番、精神的に楽だなんてな…。」
ヒーローとしてあるまじき状態だなとバーナビーは小さくこぼした。
「バニー、それ何だ?」
バーナビーがアンダースーツに着替えていると、先にトランスポーターに乗り込んで
既に身支度を整えていた虎徹がバーナビーの左薬指を見て言った。
「氷の…エンゲージリング?」
どうしてその指に指輪をしているのか。
そう言いたげな虎徹は自分を『バニー』だと認識している。
そんなことすら今のバーナビーには嬉しかった。
「バニー?」
一瞬物思いにふけったバーナビーに虎徹が怪訝に声をかけた。
「あ…ああ。仕事ですよ。マリッジリングのCM撮りの最中だったので。」
「ふーん。」
物珍しげに虎徹はその指輪を撫でた。
「なんか…冷たい感じだな。」
「そりゃ、氷ですから。」
当たり前でしょうというバーナビーの少し冷えた手をとり、
僅かに融けはじめた氷の指輪は表面が水っぽくなっているのを虎徹はつっと指で辿った。
「そうじゃなくて、それ何か愛のないマリッジリングって感じがする。」
愛のないマリッジリング。
その言葉にバーナビーは凍りついた。
「バニーにはそんな不幸そうなもの着けてほしくないなあ、俺。」
虎徹は悪気なく言ったのだが、それはバーナビーの心にぐさりと突き刺さった。
<貴方のためにつけているのに…。>
冷気に当てられるちりちりとした指の痛みが強くなった気がした。
いや、この冷気は指輪のせいかあるいは…。
「…そうですね。愛のない、一方的で独りよがりな『約束の証』かもしれません。」
抑揚のない声でバーナビーは言った。
この人の心は未だに友恵さんのもの。
何度もブチ当たり、うやむやに回避したり自分なりの答えを出して
どうにかこうにか折り合いをつけてきた永遠の命題。
貴方の指には彼女との朽ちない約束の白金が。
己の指には対もなくいずれ融けゆく冷たい氷が。
もしかしたらこれは安物のシルバーなんかよりもよほど自分に似合いだったのでは。
そう思ったバーナビーは自嘲の笑みを浮かべた。
それに気づかない虎徹はなおも畳みかける。
「独りよがりって…。こういうのは相手あってのもんじゃねえのか?」
「だから…これは対のない一人きりの結婚指輪なんです。ただの自己満足ですよ!!」
苛々と突き放したようなその物言いに虎徹は違和感を抱いた。
それ、ただのCMコンセプトなんだよな?
なのになんでお前の言葉そんなに荒れてるんだ?
なんで、そんなに悲しそうな顔してるんだ?
「おい、バニー…。」
虎徹が問いただそうとした時だった。
―タイガー&バーナビー 現場に到着。Wチェイサー出撃準備完了!!
「…スーツ着てきます。」
バーナビーは虎徹の手を振り切りチャンバー室へ駆け込んだ。
その時、空を切り虎徹の頬に小さな滴が当たった。
それは融けた指輪の残滓かそれとも…。
「…バニー?」
虎徹はそっと頬を拭い、指についた何かの水滴を見つめた。
そしてバーナビーの言葉にならない悲鳴を聞いたような気がした。
「おい、バニー!?」
扉越しに呼び掛けるが返事はなかった。
ただ、チャンバー室のモーター音が唸る音の陰に
微かな嗚咽が混じったがそれは虎徹の耳に届くことなく消えた。
「そういやあいつ、最近なんか痩せてきてないか?」
虎徹は心配げにチャンバー室に眼を遣った。
何か悩んでいるのかもしれない。
「今日の出動終わったら、ちょっと飲みにでも連れだしてやるか。」
よもやスーツを脱いだら自分の意識が飛んでいるとは
夢にも思わない虎徹は、ただ純粋にバーナビーが心配だった。
何か煮詰まっているなら助けてやりたい。
たとえ自分が大した役に立てないことだったとしても、
話を聞いてやるだけでも少しは違うはずだ。
「あいつ内に抱え込んで一人で苦しむタイプだしな…。」
その時チャンバー室のドアが開いた。
「お待たせしました。行きましょうタイガーさん。」
硬い声でそう言い、バーナビーはつかつかとチェイサーの格納庫へ向かった。
無理をしているのは虎徹の眼には一目瞭然だった。
「すごいよね、アンタって…。」
ブルーローズはバーナビーの左手を見ながら称賛とも呆れともつかない声で言った。
グローブを外したその手には融けて脆くなった薄い輪が残っているだけだ。
「こんなひどい状況の中でよく犯人確保出来るわね。仕事は仕事ってこと?」
バーナビーはもちろんそれもありますがと前置きながら首を横に振った。
「ほとんど八つ当たりですよ。凶悪犯相手なら暴力振るっても咎められませんから。」
その言葉にブルーローズはぷっと笑った。
「それオフレコにしといてあげるわ。指輪代も含めて今度ケーキごちそうしてよね。」
その言葉にバーナビーも相好を崩す。
「ゴールドメダイユの有名パティスリー新作ケーキ一箱で勘弁してください。」
「よーし、全部終わったら皆でゴチになるわよ。」
バーナビーが頷き、ではお願いしますと言った。
「じゃ、行くわよ。」
見る間に新しい氷の指輪がバーナビーの薬指に現れた。
「ありがとうございます。これでまた暫くは…。」
「…ねえ、いつまでも誤魔化すのは無理じゃない?」
ブルーローズは気遣わしげに言った。
「どこかで、打ってでないとタイガーもあんたもまずいことになるんじゃないかな…。」
彼女の言葉にバーナビーは困ったように眉尻を下げた。
「そうですね…。実を言えば、限界は近い気がします。」
どちらの、とはブルーローズも聞かなかった。
「これが融けて壊れる前に、何とかしてみます。」
バーナビーは真新しい氷の指輪を日光から遮るように右手で覆い隠した。
「無理…しないでよね。」
「はい。」
まだ心配そうなブルーローズにもう一度礼を言い、
バーナビーは自社のトランスポーターに戻ろうと歩きはじめた。
「あいつら一体…何の話をしてたんだ…?」
尋常じゃない雰囲気を察して二人を遠巻きに見ていた虎徹は
自分の預かり知らぬところで何かが起きていると感じた。
何故ブルーローズが氷の指輪を?
CM撮りの小道具じゃなかったのか?
誤魔化すとか、何とかするとか、話がさっぱり見えない。
よくある話ならここは浮気を疑うところだろうか。
だが二人の間にはそんな色ごとめいた空気は全くなかった。
むしろ二人が何か心配事や不安要素を共有しているような…。
「だっ!!」
考えてもさっぱり分からない。
さっきのバーナビーの様子といい、やはり何か起きている。
「やっぱり本人に直接聞いてみるか。」
虎徹はバーナビーに遅れてトランスポーターに戻りチャンバーに立った。
「スーツ脱いだらバニーにラウンジで聞いてみる…か・・・。」
チャンバーの電気信号により強化ゴムのスーツが次々と引き剥がされていく。
同時に虎徹の眼がどろりと濁るように光を失い、思考が急速に遠ざかっていく。
「くそ・・・また・・・だ・・・。」
そこで彼の意識はブラックアウトした。
「本当ですか!?ええ…分かりました!!」
バーナビーはアンダースーツのまま携帯の着信モニターに頷いた。
「はい、はい…。ありがとうございました。」
バーナビーは何度も礼を言い通話を切った。
虎徹のいない間に管理官からの連絡を受け取れたのは僥倖だった。
だが…。
「全く…なんてひどい話だ。」
バーナビーは管理官からの報告に眉間に深い皺を刻んだ。
問題のNEXT能力者はこともあろうに司法局幹部の母親だった。
他に類を見ない高齢でのNEXT能力発現に、
息子が母の老人ボケだと取り合わなかったこと。
自宅周辺でいくつかの問題が起きてから漸くその事実に眼を向けたはいいが、
今度は息子が保身のために母の能力を登録せず握りつぶしていたこと。
当人を司法局に呼び出したが高齢で自己の能力を正確に把握しておらず、
解除方法は本人いわくの『願いをかなえる』こと以外には不明。
近隣トラブルは周囲の疲弊と二次被害を呼び係争中のものもある。
もし時間制限があるにしても長期間にわたる恐れがあるとユーリは言った。
だがそのうえでユーリはこうも言った。
「一般的に精神操作系の能力は外部からの揺さぶりに弱い傾向があります。」
根拠に基づいて弁を為す法曹家らしく、
ユーリは会社の方にNEXT研究機関の論文を数点データで送りましたと告げた。
「ワイルドタイガーの心に揺さぶりをかければあるいは…。」
「外部からの揺さぶり…。」
まさか正気にかえれと首根っこを揺すってというわけではないだろう。
では現実と虚構の齟齬を突きつける?
それは虎徹の精神にダメージを与えるような気がして
バーナビーが避けていた行いだった。
だがもし、彼の妄想に沿って事実を偽ることの方が傷が深くなるとしたら…。
このままでは虎徹も自分も亡くなった本物の友恵も全員が不幸な結末になる。
「やって…みるしかないか。」
バーナビーは急いで身支度を整えた。
時刻はとうに定時を過ぎている。
今日はこのまま『友恵』として虎徹の家に帰る流れになるだろう。
でもその前に会社に寄って論文を見たい。
スーツを脱いだ虎徹に捕まると厄介だが、
アントニオに「相談がある」とでも言って虎徹を呼び出してもらうか。
バーナビーは素早くアントニオにメールを打った。
すぐに携帯が震え、ほぼ即レスで帰って来た了解の旨にほっと息をつく。
「決戦は今夜だ…。」
バーナビーは氷の指輪をひと撫でして気持ちを落ち着かせた。
「僕は…本当に『友恵さん』になるわけにはいかないんだ。」
虎徹の幻覚に引きずられ、彼の愛妻としての立場に身を委ねることへの誘惑。
それはプライドや正気、もろもろの自分の精神を手放せば…。
有体に言えば虎徹もろとも『イってしまえれば』ある意味自分は幸せになれる。
たとえそれが虚構、紛いものだというべきものだとしても。
虎徹の誤認が始まってすぐ、バーナビーはその誘惑にかられ何度も葛藤した。
それは虎徹の自分自身への気持ちを疑うことにほかならないという思いと、
その一方でどんな形であれ、虎徹の心を独占したいという堪えがたい衝動。
それは幼くして両親を失い、他者からの無償の愛情が決定的に欠乏していた
バーナビーにとっては抗いがたい誘惑だった。
他人を遠ざけ、溝を作って生きてきた彼の心の奥底はいつも欲していた。
無条件で自分だけを抱きしめてくれる誰かの温かな腕を。
<虎徹さんの愛情は本物だけど、でも、僕は一番じゃない。それも事実だ。>
ずっとそう思っていたバーナビーの耳に悪魔が何度も囁いた。
―さあ、ちっぽけな自我を捨てろ。それだけでお前は幸せになれるぞ?
その誘いに流され、『友恵』として振る舞うたびに心が切られるように痛かった。
正気のまま虎徹に『友恵』と呼ばれ抱きしめられる苦痛。
そのたびにイってしまえたら楽になれるという思いが頭をよぎった。
このままではいけないと思い、己に課したのが氷の指輪の枷だった。
虎徹が愛がないと評した氷の指輪は、偽物の愛を拒絶するための最後の砦だ。
今までこの冷たい痛みが何度も彼を彼に戻してくれた。
だが誤魔化しも欺瞞もここまでだ。
「もう貴方の『一番』が彼女のものでもいい。」
バーナビーは鏡のように艶やかな青い環をじっと見据えた。
「でも『本物の一番』すら見ていない貴方にはこれ以上耐えられない。」
何としても本当の貴方を取り戻す。
バーナビーはもう俯くまいと、決然と前を見据えた。
「友恵さん、貴女のためにも本物の彼を取り戻します。」
バーナビーは自分の本心を問うように瞑目し、やがて頷いた。
「僕だって貴女の身代わりなんかもうごめんだ。」