パンドラの箱
1.暴露
この想いはパンドラの箱だ。
絶対に開けてはいけない。
心の奥の奥に、死ぬまで封印しておかなければいけない禁忌。
もし開けてしまえば、僕はすべてを失うことになる。
そんなの嫌だ。
やっと手に入れた、この温もりを失くしたくない。
たとえそれがただの仲間意識でも友愛でもいい。
もう、独りにはなりたくない。
だから…。
だから、この想いは決して外に出してはならないんだ…。
ヒャアハハハハハハ!!
狂ったような嗤い声が寒空に響いた。
「喰らえ!!」
その声にバーナビーはしまったと思ったが遅かった。
バーナビーが地面に引き倒し上から押さえつけている
連続暴行犯の身体が青く光り、スパークするような閃光が走る。
バーナビーの身体が電撃に打たれたように激しく跳ねた。
「バニー!!」
遠くで相棒の叫ぶ声が聞こえる。
「くそ…貴様…NEXTか…。」
意識が遠のきそうになるのをこらえ、
バーナビーは犯人を取り押さえる手を必死で強めた。
何人もの負傷者を出した通り魔。
絶対に取り逃がすわけにはいかない。
「ふざけた…真似を!!」
「お前も社会から落ちこぼれろ!シュテルンビルトの王子様よお!!」
ヒャハハハ…ぐあ!!
バーナビーは犯人の喉を死なない程度に締めあげ失神させた。
犯人が落ちたと確認できた途端、視界がふうっと遠のいていく。
「…こ…て…さん…。」
小さく呟き、バーナビー自身もその場に倒れた。
「バニー!バニー!?」
どこかで彼が呼んでいる声がする。
<す・・・き・・・>
フェイスガードの下で、バーナビーの口が微かにそう動いた。
「それで、犯人の能力は?」
虎徹は険しい顔でPDAの画面を睨んだ。
「バニーは一体何をされたんだよ。」
「それが…。よく分からないのよ。過去の被害者の状況に一貫性がなくて。」
モニターの向こうでアニエスが溜め息をつく。
「奴の能力を受けて犯罪を犯した者もいるし、周囲と諍いを起こした者もいる。」
被害者の周りはなにがしかトラブルが起きているが、
程度も傾向もばらばらで何とも言えないとアニエスは言った。
「あの野郎、初犯じゃねえだろあの様子は。なんか記録ねえのかよ。」
「それがないのよ。ねえ、バーナビーの様子はどうなの?」
虎徹は未だ意識の戻らないバーナビーを心配そうに見つめた。
スーツの外装を外され、ソファに寝かされたその顔色はそう悪くない。
斎藤もスーツに記録されたバイタルから身体には異常ないと言った。
「今は眠ってる。けど、起きてどうなるか分かんねえんじゃなあ…。」
虎徹は苛々と頭を掻いた。
ただ気を失っただけならいいが、あの捨て台詞がどうにも引っかかる。
「病院で診てもらおうにも車は全然動かねえし!だぁ!!もう!!」
NEXT研究機関も兼ねる大学病院に向かう幹線道路が渋滞しているらしく、
トランスポーターが一向に着く気配がないのが虎徹の苛立ちをよけいに煽る。
「だいたい記録ねえって!警察とか司法局とか、なんかデータあるだろうが!!」
NEXT犯罪者はたとえ未成年の初犯でも能力の記録が残される。
アニエスはその美しい顔を、苦虫を何匹も纏めて噛み潰したように歪めた。
「それが…。どうもあの男は警察上層幹部の御曹司らしくてね…。」
「揉み消されてたってわけか。くそっ!!」
虎徹は悔しげに歯噛みした。
「今までは、ね。今回はあいつにとっては相手が最悪だったわね。」
アニエスはそう言って画面の端に映るバーナビーに目を遣った。
その視線に虎徹も僅かに溜飲を下げたような顔になる。
「ああそうか…。確かにその野郎、詰みだな。」
この街を牛耳るメディア王の実質的養子に手を掛けては、
仮に奴が警視総監のご子息でも揉み消せまい。
奴の処遇はどうあれ、能力はいずれはっきりするはずだ。
「う…。」
その時、バーナビーが小さく呻いた。
虎徹ははっと背後を振り返った。
「バニー!気がついたか!!」
<バーナビー、大丈夫なの!?>
バーナビーは状況を把握できないのか、何度も目を瞬かせ辺りを見回した。
<ここは…トランスポーター?僕は一体…。>
バーナビーはゆっくりと身を起こし、頭をしきりに押さえている。
虎徹はその様子に心配そうに眉根を寄せた。
<『被害者は全員、なんらかのトラブルを』…か。>
バーナビーの様子をアニエスに知られると面倒かもしれない。
虎徹はPDAの画面からバーナビーをフレームアウトさせた。
「アニエス、いったん切るぞ。また連絡する。」
「ちょ…タイガー!」
何か言いたげなアニエスに構わず、虎徹は通信を切った。
「バニー、大丈夫か。気分はどうだ?」
虎徹はバーナビーの様子をそっと窺った。
「虎徹さん…僕…。」
何か言おうとしたバーナビーは突然口を両手で覆った。
突き上げる衝動を懸命に堪えるが、喉が意思に反して震える。
バーナビーは苦しそうに身体を前にのめらせた。
「うっ…。く…。」
「おい、どうした?吐きそうなのか!?」
虎徹はバーナビーの背を摩ろうと手を伸ばした。
「!!」
バーナビーは咄嗟に身を捩り、その手から逃れようとした。
眼は潤み、白い頬を紅潮させた妙に艶のある表情。
両手で口許を覆ったその様子といい、明らかにどこかおかしい。
だが虎徹はそれを『人前で嘔吐しそうなことへの羞恥』だと解釈した。
虎徹はバーナビーの背を擦り、押さえた優しい声で言った。
「バニー、吐きそうだったらいいから出せ。」
バーナビーは口元を押さえ、必死で頭を振る。
「恥ずかしがらなくていい。俺しかいないから。辛いんだろ?」
だがバーナビーは瞼をぎゅっと閉じ、必死で口を塞ぐ。
<絶対、口を開けちゃだめだ!!>
喉を吐く暴力的なまでの衝動にバーナビーは必死で耐えた。
<口を開けたら…僕は…。>
無意識のうちにバーナビーは舌を噛んでいた。
それに気づいた虎徹は慌ててバーナビーに飛びついた。
「馬鹿!何やってんだ!!」
虎徹はバーナビーの頤に指を引っかけ、無理に口を開かせようとした。
「んん!!んんー!!!」
バーナビーは涙目で必死に抵抗するが、虎徹の手の力に敵うわけもない。
<駄目です!やめてください!!僕は貴方を…!!>
抵抗も空しく、パンドラの箱はついにこじ開けられた。
「虎徹さん好きです!」
そう叫んだバーナビーの眼が大きく見開かれた。
<…終り、だ…。>
バーナビーはショックのあまり誤魔化そうという思考すら働かない。
「え…お前何言って…。」
バーナビーの顔を捕えていた虎徹の手が滑り落ちた。
自由になったバーナビーの口が、当人の意志を無視して動き出した。
虎徹さん好きです!
心の底から愛しています!!
こんな気持ちは初めてです!!
一度でいい、どうか僕を…!
何かに操られたような勢いでそこまで言って、バーナビーの声が止まった。
バーナビーが彼自身の手を噛んだからだ。
一筋の涙が頬を伝い、バーナビーは耐えられないというように顔を背けた。
バーナビーの喉から迸る愛の言葉の数々に、虎徹は呆然としていた。
白い手を伝う血を止めることさえ思いつかないほどに。
こいつは何を言っているんだ?
バニーが俺を愛してる?
そんなバカな。
だって、俺たちは同僚で、バディで、それ以前に男同士で…。
犯人のNEXT能力で意思に反することを言わされている?
だったらどうしてバニーはこんなに哀しそうな顔で泣いてるんだ。
この表情は心にもないことを言わされた屈辱というよりむしろ…。
ふいに嗚咽が聞こえ、虎徹は意識をこの場に引き戻した。
「…ごめんなさい…。ごめんなさい…。」
うわ言のようにそう言ったかと思うと、
バーナビーは突然立ち上がり、走行中の車のドアを手動で開け放った。
「おい、バニー!」
咄嗟に引きとめようとする虎徹を、バーナビーは辛そうな顔で振り返った。
「ごめんなさい、虎徹さん…。」
苦しそうにそう言い、バーナビーは外へ飛び出した。
「おい!お前まだ能力切れて…!」
幸いなことに、外はまだ渋滞が続いていた。
周囲の車からクラクションを鳴らされながら、
バーナビーはその間を縫うように走り去った。
「…あの馬鹿!」
虎徹は舌打ちして後を追おうと身を乗り出した。
だが運の悪い事に、虎徹が追いかけようとした途端に渋滞が解消された。
何も知らないトランスポーターのドライバーが
一気にアクセルを踏み込み加速する。
振り落とされそうになり、虎徹は慌ててドアにしがみついた。
「だっ!!」
さっきまで子供が走ってでも追い越せる速度だったというのに、
僅かな時間差で能力の切れた虎徹が飛び降りられる速度ではなくなった。
「バニー!!」
虎徹の叫びは周囲の車の騒音に掻き消された。
何が何だか分からない。
虎徹はバーナビーが走り去った方向を力なく見送った。
予想だにしなかったバーナビーの言葉。
脳裡に焼きつくバーナビーの哀しい表情。
「バニーが…俺を…。」
虎徹はバーナビーの言葉を反芻した。
「バニーは俺を愛している…。」
不思議と、嫌悪感は湧かなかった。
ただ、彼の傷ついた顔が痛ましかった。
「駄目だ。あいつを独りにしたらいけない…。」
虎徹はドアを閉め、運転席に通じる内線をコールした。
「斎藤さん、車を止めてくれ!!早く!!」