A 虜囚
人気のない廊下に虎徹の足音が響く。
初めのうちこそ誰かが探検に侵入したような形跡があったが、
廃墟の病院に奥まで入り込む物好きもそうはいないようだ。
「この近くのはずなんだが…。」
虎徹は斎藤に転送してもらったバーナビーのPDA探知画面を見ながら
病室やナースステーションだったらしき事務所を覗き込んでいった。
「ここじゃねえな。」
うち捨てられた古い椅子に埃が堆く積もっている。
こんなところに潜伏すれば埃の上に足跡がついてすぐに見つかるはずだ。
朽ちたカーテンレールの垂れさがる病室。
水垢と錆にまみれた薄気味悪い給湯室。
虎徹は嫌悪感を感じる余裕すらなく虱潰しに病棟を歩いた。
そして廊下の突き当たりでとうとう虎徹の勘が動いた。
「…ここ、なんか臭うな。」
虎徹は大きな二枚扉の前で足を止めた。
経験則で、というより実際に微かな薬物臭がするのだ。
現役の病院なら当たり前の、だが廃墟ではありえない臭い。
この部屋でほぼ当たりだろう…が。
虎徹はいつになく慎重な面持ちで周囲を見回した。
「闇雲に突っ込んでバニーに何かあったらまずいな。」
薄汚れた手術室の札を見上げ虎徹はPDAの端末マップを
熱探知モードに切り替えた。
熱源は二人分。
犯人とバーナビーだろうか。
あるいはどちらも犯人かもしれない。
犯人というのが正しいかは現時点では分からない。
だが虎徹はバーナビーの意志によるな失踪ではなく何者かによる拉致だと考えていた。
だとすると単独犯の犯行か。
それに一方の熱源がいやに低いのが気にかかる。
もしこれがバーナビーだったら悠長なことは言っていられない。
虎徹は息をひとつ吸い、気持ちを落ち着けた。
「斎藤さん、それらしい部屋を見つけました。突入します。」
僅かな間があって斎藤の声が聞こえた。
<分かった。だが無茶はするなよ。>
虎徹は努力するよと心の中で言って手術室に踏み込んだ。
「なんだよこれ…!!」
虎徹は広い室内の奥に据え置かれたそれを見て息を呑んだ。
高さが優に二メートルを超える巨大なガラス製のタンクの中に
全裸のバーナビーが沈められている。
鼻と口を覆う人工呼吸器のようなものをつけられて。
ギリシャ彫刻のような精悍な四肢を惜しげもなく晒し
金の髪を緑色の培養液に踊らせてバーナビーは囚われていた。
「バニー!!」
悲鳴のような声をあげ、虎徹はそれに駆け寄った。
だがバーナビーの意識は戻る気配がない。
「バニー!おい!聞こえるか!!しっかりしろ!!」
虎徹は必死でタンクを叩いた。
「あんまり乱暴しないで頂けるかしら、壊し屋さん?」
部屋の陰から白衣を着た一人の女が歩み寄った。
「てめえ…何者だ!!バニーに何しやがった!!」
虎徹の怒りに満ちた声音に女はふふっと余裕の笑みを浮かべた。
私はリリス。
まあ偽名だから名前に意味なんてないけどね。
蛇に縁のある女って言えば見当は着くかしら。
もっともこれはうちの組織には何にも関係ないけどね。
あと、何をしたかだったわね。
バーナビーの能力に用があって呼びだしたんだけど…。
この子、意外とバカよねー。
『私のNEXT能力でワイルドタイガーの能力を5分に戻すことができる』って
嘘のファンレターを出したらのこのこ呼び出しに応じたわよ?
薬物入りのハーブティ飲ませて私の能力を喰らわせたらこのざまよ。
よくまあこれでKOHなんかやってたこと。
あのイボ爺もずいぶん上手く踊らせたものね。
それとも私の演技が上手かったってことかしら。
油断させるためとはいえ、人畜無害なロハス女の真似ごとは骨が折れたわ。
ま、こいつだけでもいいかと思ったんだけど。
せっかくだからアンタも私に協力してもらうわよワイルドタイガー。
可愛い相棒と一緒に逝けるんだから感謝しても…きゃあ!
「おしゃべりはもういい。」
話の途中で虎徹は渾身の拳をリリスの鼻に叩き込んだ。
白い鼻筋が曲がり鼻血が白衣を汚した。
「長年ヒーローやってるけど、女の顔を殴ったのは初めてだ。」
虎徹は拳を震わせ忌々しげにリリスを睨んだ。
許せなかった。
自分のために危険を冒したバーナビーの一途な思いを愚弄したこの女が。
「俺をダシにバニーをこんな目に遭わせやがって!目的は何だ!!」
口内を切ったのかリリスはぷっと床に血の混じった唾を吐き捨てた。
「オッサン分かってんのか!?てめえの相棒の命は私が握ってんだよ!!」
突如口調を荒げてリリスはタンクを癇性に叩いた。
「私の邪魔をするならアンタもただじゃおかないよ!!」
その態度に虎徹は違和感を感じた。
顔を殴られて激昂しているだけのようにはどうにも思えなかった。
<バニーを人質にしてるならそんなに焦る必要はないはず…。>
優勢に立っているはずのこの女は何かに切迫感を感じている。
「こいつの命が惜しかったら二度とタンクに触れるな!!」
激昂するリリスを前に虎徹は逆にどんどん冷静になっていった。
邪魔というのは、何の邪魔をするなというんだ?
そもそも人質というのがおかしいのか。
第一、こちらには要求めいたことは何一つ伝わってきていない。
目的はバニーを捕えることそのもの?
この女が慌てているのはそのバーナビーを奪還されそうになっていることへの焦りか。
虎徹はタンクをもう一度よく見なおした。
太い管が上部から出てどこかに伸びている。
…バーナビーを捕えた目的は何だ。
少なくとも自分たちを脅迫することではない。
バーナビーをこのタンクに沈めている意味は?
多少は無茶をしてもこの女に吐かせるしかないか。
虎徹は腹を括った。
やりすぎるくらいでなければウロボロスの女が真相を明かすとは思えない。
「ただの人質にしちゃ仰々しい装置じゃねえか。」
リリスは図星を吐かれたようにぎょっとした顔で立ちすくんだ。
「このタンクの管、何処に繋がってるんだ?バニーについてるこのコードは?」
虎徹の問いにリリスはふいと顔を背けた。
だがその眼が一瞬あるところに注がれたのを虎徹は見逃さなかった。
「バニーの能力に用があるって?この機械でバニーをどうしようって言うんだ?」
「そんなの正直に答えると思う?」
上擦る声を押さえ嘲るような笑みを浮かべたリリスに虎徹は首を横に振った。
「いいや?」
低い声でそう言うと虎徹はリリスの喉を掴み持ちあげた。
「ぐ…は…」
爪先が宙を掻き、リリスの顔が真っ赤になった。
能力封印のNEXT能力を使おうにも、
こうも精神が集中できないと上手く発動できない。
「きさ・・・ま・・・相棒の・・・いのちが・・・。」
「言っとくが、てめえがいなくてもこんな機械どうとでもなるんだぞ。」
うちには最高のエンジニアがいる。
虎徹は繋ぎっぱなしにしていたPDAの回線越しに機械を斎藤に見せた。
ほどなく内部スピーカーで斎藤が囁いた。
<どうとでもなるが絶対壊すなよ!タンクはバーナビーの命そのものだと思え!!>
斎藤の必死の忠告に虎徹はフェイスシールドの下で苦笑した。
それくらい承知している。
この女の目的がはっきりするまで、あの機械に無暗に手をかけるわけにはいかないと。
虎徹は水槽の中のバーナビーを見上げた。
<バニー、すぐそこから出してやるからな>
虎徹はそう誓うと意識を眼の前の毒婦に戻した。
「人工呼吸器つけてるってことは、てめえもバニーに死なれちゃ困るんだな。」
その問いにリリスはふてくされた顔をふいと背けた。
「答えねえのが答えってことか。」
ある意味、バーナビーがこの女にとって利用価値のある人質でよかった。
命さえ担保されているなら、必ず何か道はある。
「ま、要するにてめえをぶちのめしてバニーを連れて帰ればいいってこったな。」
人質が切り札として機能していない。
そのことに気づいたリリスの顔色が変わった。
「ほら、白状しやがれ。」
床にリリスの身体を叩きつけ、虎徹は冷然とした声で言った。
「アンタってもっとフェミニストかと思ってたよ…。」
げほごほと咳き込みながらリリスは後ずさり虎徹と距離を取った。
「てめえがウロボロスじゃなかったらここまでしねえよ。」
はっと吐き捨てるような息を吐き、虎徹はリリスの足を見た。
捲れ上がった長いスカートの裾からウロボロスの紋が覗いている。
「ウロボロスはバニーの宿敵。だったら俺にとっても宿敵だからな。」
虎徹はこの女がどういう意図かウロボロスの名を出したことには感謝した。
度の過ぎたファンの犯行程度ではとてもここまではできない。
「一度だけしか言わねえぞ。今すぐバニーを解放するかここで死ぬか選べ。」
虎徹はそう言うや否やリリスの喉にワイヤーを巻き付けた。
「はっ!出来ないねそんな選択。」
リリスは反抗的にうそぶいた。
どうせこいつはヒーローの鉄則に縛られていると読んで。
たとえ犯罪者でも私怨による制裁はできない。
だが虎徹はワイヤーを緩めない。
「できなきゃ死ぬだけだぞ。」
リリスはその声音に虎徹の本気を悟った。
「ヒーローがそんなことしていいと…。」
リリスは動揺を悟られまいと虚勢を張るが虎徹は意にも介さない。
「ウロボロスは人間じゃないと思ってるんでね。」
TVでは三枚目にしか見えないベテランヒーローの冷徹な声。
異常な事態に周囲が緊迫した。
ごぼり。
タンクの中でバーナビーの吐息の泡沫がひときわ大きく上がる。
「バニーの命とお前の命が俺にとって等しいわけないだろ。」
劣勢を悟ったリリスが小刻みに震えた。
<タイガー!?無茶をするなと言ったはずだ!>
あまりに短慮に見える虎徹の行動に斎藤が必死な声で制止した。
このままいけばヒーローライセンス剥奪ものの事態になる。
<だめ・・・こ・・・てつさん・・・。>
そう言おうとでもしたのだろうか。
ごぼ・・・ごぼり・・・ごぼごぼ・・・
バーナビーの吐息が不規則になった。
虎徹はその様子を見て心配そうに眉根を寄せた。
早くしなければ。
「私を殺してでもこいつを奪い返そうってのか。」
「勘違いするな。俺はバニーを助けたいだけでてめえなんざどうでもいい。」
虎徹は二度も言わせるなと首を横に振った。
「バニーを解放しろ。さもなくば…。」
虎徹はワイヤーを伸ばしリリスと距離を取りながら、
つかつかと白い覆いの掛かる“それ”に歩み寄った。
バーナビーの沈むタンクと大きな管で繋がれた、
リリスが先ほど一瞬視線を走らせたものに。
「やめろ!それに触るなあ!!」
リリスが金切り声をあげた。
「聞こえねえな。」
虎徹は覆いの端を掴み力任せに引きちぎった。
「やめてええ!!」
リリスの絶望の悲鳴が響く。
「な…。」
覆いの下から出てきたものに虎徹は絶句した。
バーナビーのそれとほぼ同型のタンクに幼い少女が浸かっている。
だがこの部屋には熱感知は二人分しかなかった。
少女の異様に白い肌は…。
虎徹は痛ましげに顔を顰めた。
少女の容姿を見れば一目瞭然だった。
「…お前の娘か…。」
リリスはがくりと力尽きたようにうなだれた。
「私だって…こんなことしたくなかった…。」