Solitude
@幻聴
「怖い…怖い…!!」
小刻みに震える体。
涙に濡れた長い睫。
バニーは明らかに異常をきたしていた。
何者かに怯え、凄まじい不安に曝されている。
そんなバニーはこの上なく弱く儚く見えた。
自信満々とか前途洋々という言葉が誰よりふさわしい
シュテルンビルトの王子様と持て囃されるこいつが。
時限爆弾やテロリストに敢然と立ち向かうこのバニーがだ。
「嫌だ!もう止め…」
バニーが何を恐れているのかは全く分からない。
だが、このままではあまりに可哀そうだ。
何とか安心させてやりたくて俺はバニーの背をそっとさすった。
すると決して小さくはないその身体が臆病な小動物のようにビクンと揺れた。
「バニー、大丈夫。大丈夫だから。」
「虎徹さん…。」
俺の声にバニーは恐る恐る顔をあげた。
トランスポーターのドライバーやアシスタントエンジニア、そして斎藤さん。
ヒーロー事業部のスタッフ達が少し離れたところで
錯乱したようなバニーを心配と困惑の入り混じった目で見守っている。
「バーナビー、少し横になれ。すぐに病院に連れて行ってやるから。」
斎藤さんが心配そうに小声でそう言っている。
「ほら、皆も心配してるぞ。」
俺はバニーが彼らを見れば、自分が独りじゃないと分かれば安心すると思った。
だがそれは大きな間違いだった。
バニーは目を見開き綺麗な顔を引き攣らせた。
周りを見回し誰もいない方に向かって何かを睨みつけるような顔をする。
「嫌だ!黙れ!それ以上何も言うな!!」
掠れた声で叫びバニーは耳を塞いで蹲った。
「うるさいうるさいうるさい!!」
半狂乱でバニーが叫ぶ。
「バニー!?どうしたんだ!誰も何も言ってないぞ!?」
俺が驚いて膝を折りバニーの背を撫でながら問うとバニーは激しく首を振った。
「ウソだ!!皆が…皆が僕を罵ってる!!」
喉を裂くような悲鳴に俺たちはただ立ち尽くすしかできなかった。
もうすぐ日付が変わろうかという頃、俺はうすら寒い病院の廊下にいた。
あの後すぐ病院に緊急搬送されたバニーは検査を受け今は病室で眠っている。
「一体なんでこんな…。」
俺は廊下のベンチに腰を下ろし頭を抱えた。
バニーの様子がおかしくなったのは明らかにNEXT被害だった。
誰がやったのかは明らかだ。
直前にバニーが確保した通り魔の男だ。
武器を所持してモノレールの駅で暴れ出した行きずりの粗暴犯。
一部二部の隔てなく近くにいる者は急行せよとの招集に
ちょうど二部の捕り物を終えたばかりの俺達が一番に駆け付けた。
武器も安っぽいナイフ一本だけと俺たちにとっては容易な案件だったのだが
バニーに確保された犯人が発動したのだ。
咄嗟に犯人を締めて落とし警察に引き渡した直後、
バニーは急に苦しそうに呻きだした。
何の能力を受けたのか分からない以上、バニーと市民を接触させるわけにはいかない。
俺がバニーを連れてトランスポーターに駆け戻った直後、あの顛末だ。
あれを市民に見られなかったのだけが不幸中の幸いか。
「大丈夫かなあいつ。」
俺は病室の壁に凭れかかって、この向こう側のバニーを思った。
一時的な混乱だったらいいんだが。
とにかく今日は俺も帰れないな。
そうだ、あいつが眠っている間にロイズさんや他の関係筋に連絡入れないと。
そう思って携帯で通話できる場所に行こうとした時
薄暗い廊下からカツカツと甲高いヒールの音が聞こえた。
「アニエス…。」
「お疲れ様、タイガー。」
アニエスは俺にコーヒーショップの紙袋を押し付けるように渡した。
冷えた身体にカップの温もりが沁みわたる。
「バーナビーは?」
気遣わしげな声でアニエスがそっと訊ねた。
「今は薬で眠ってる。眠らせるまでが大変だったけどな。」
「そう…。」
アニエスは手にしたカップを形の良い唇にあてた。
「何か分かったのか?」
俺の問いにアニエスは渋い顔で首を横に振った。
「精神操作系NEXTだということ以外にはまだ何も。」
アニエスの言葉に俺は溜め息が出た。
「んなこたあバニーの状態見れば分かる!解除条件とか分かんねえのかよ!」
「私に怒鳴らないで。」
アニエスも不愉快そうに長い髪を掻きあげた。
「しょうがないでしょ。逮捕された拍子で能力に目覚めちゃったんだから。」
アニエスは司法局と警察から回ってきた資料の束を俺につきつけた。
犯罪歴は前科がいくつかあるが能力の履歴はナシ。
本人も予期せぬNEXT能力の発現に混乱しているらしい。
「なんてこった…。能力目覚めたての暴走君かよ。」
「おかげで迂闊に近づけなくて事情聴取もろくに出来てないそうよ。」
つまりバニーが被弾したNEXT能力については全く不明ってか。
でも確かにうっかり近づいてあの状態に陥ったらただ被害者を増やすだけだ。
ああくそ!
「あの状態が長引いたらバニーの精神がもたねえぞ。」
俺は閉まったままの病室のドアを見て頭を掻いた。
「一体どういう状態なの、バーナビーは。」
アニエスもさすがに心配そうに細く綺麗な眉根を寄せた。
俺はあまりにも痛々しいバニーの姿を思い出し顔が歪むのを感じた。
「どうもこうも酷いもんだ。」
周りにいる人間が自分を罵倒する声が聞こえるそうだ。
<マーべリックの人形!>
<八百長ヒーロー!!>
<シュテルンビルトの恥!>
<偽物ヒーロー!!死んでしまえ!!>
そんな声が絶え間なくバニーの耳には聞こえるらしい。
もちろん誰もそんなこと言うはずがねえ。
精神科の医者が言うには、今出てる兆候だけを見れば被害妄想だそうだ。
ただこれは純粋な精神障害じゃなく能力被害だから
今後どういう変化をするかは全く不明だと。
医師の診断中もバニーが錯乱するんで大変だったんだ。
俺に「この人が僕を殺そうとしてる」って涙目で訴えて。
あのバニーがただの一般人を怖がるんだぞ?
俺もう可哀そうで…。
何とか必死で落ち着かせると俺の腕を痛いぐらい掴んできて。
どういうわけか俺があいつを非難する声は聞こえないらしい。
俺とはちゃんと会話できるんだ。
だから必死で宥めすかしたんだけど、あんまり効果はなかったみたいでさ。
鎮静剤打つのにもめちゃくちゃ暴れるから数人がかりで押さえつけて…。
それで余計に幻聴がひどくなっちまった。
バニーが出動で能力切れてたからそれで何とかなったけど、
すげえ苦しそうで見てられなかった…。
しかもあいつ、例の事件の時マーべリックに睡眠薬盛られたらしくてさ。
他人の手で鎮静剤とか睡眠薬を投与されるのがすげえ怖いみたいなんだ。
「嫌だ!虎徹さんの事また忘れてしまう!!」って涙流して…。
それでも眠らせないと、このままではあいつの命が危険だからって医者が…。
自傷他傷の恐れもあるから、最悪の場合NEXT用の拘束衣着けないといけないとか。
あんまりだよ、そんなの…。
今は薬で眠ってるけど、ずっと眠らせるわけにもいかねえだろ。
ほんと、早く能力の解除してやらねえとバニーが可哀そう過ぎるよ…。
俺の話にアニエスはなんてことと呻くようにいい、しばらく何事か考えていた。
「分かったわ。貴方はとにかく今はバーナビーについていてあげて。」
「もちろんそのつもりだ。」
司法局と会社関係の段取りは自分が請け負うからと言い、
アニエスは何件かの電話をかけ始めた。
「ペトロフ管理官とNEXT能力研究所にも協力を取り付けられたわ。」
バーナビーは出動による負傷で入院中。
表向きはそう公表して他の出動や仕事は根回ししておくから。
タイガーの仕事も最小限の出動以外は無いようにしておくわ。
ハンドレットパワーの回復したバーナビーが錯乱や正当防衛とはいえ
医師やナースに怪我をさせる可能性もある。
ヘタをすると彼自身…いえそれは考えたくないわね。
とにかく、タイガーの仕事はバーナビーを安心させること。
あとは周囲の人たちの護衛をお願いするわ。
医師やナースも含めて他の誰かが無暗にバーナビーに接触しないよう
絶対安静の札でも出しておいてもらいましょう。
もちろん報道関係は緘口令敷いておくわ。
…タイガー、貴方も気をしっかりね。
バーナビーを支えてあげてちょうだい。
私達も協力するから、なんとか解決策を探しましょう。
衝突したり鼻につく時もあるが、彼女の有能さはよく知ってる。
周りとの折衝や根回しはアニエスの十八番だ。
「済まねえな。頼むわアニエス。」
「二部のメンツにはベテラン不在の今がポイント稼ぎ時だって言っておくわ。」
街の治安は若い後輩にしばらく預けなさいな。
彼女の言葉に俺は素直に頷いた。
「じゃ、私もう行くわね。」
「ああ、気をつけてな。」
ひらひらと手を振りアニエスが帰った後、俺はそっとバニーの病室に戻った。
「虎徹さん…。」
薄闇の中から思いがけず聞こえた声に俺は部屋の明かりをつけた。
「悪い、起しちまったか?」
薬が切れたのかバニーがぼんやりした目で天井を眺めていた。
起き上る気力もないのかぐったりとベッドに横たわったまま。
「気分はどうだ?」
「…よくない…っていうか、最悪です。」
眉根を寄せ、頭を振るバニーの髪を俺はそっと撫でた。
俺以外の他人がいないせいか幻聴は聞こえないらしく、バニーは比較的落ち着いている。
だがたった数時間でげっそりとやつれてしまった。
「酷い幻聴だったみたいだな。辛かったろ。」
バニーは幻聴、と小さく呟いて首を振った。
幻の罵詈雑言を思い出させちまったのだろうか。
バニーは細い眉を寄せ頭が痛いみたいに顔を顰めた。
「悪い、嫌なこと思い出させたか。」
俺はバニーの肩のあたりをゆっくりさすった。
「いえ…。それよりこれはNEXT能力被害、ですか?」
俺が頷くとバニーはやっぱりと目を伏せた。
「詳しいことは今アニエスや会社が調べてる。」
はっきりしたことが分かるまではお前はここで入院することになる。
そう言うとバニーは首を横に振ってゆっくりと起き上った。
「出来れば…家に帰りたいです…。」
ここにいると医師や看護師が来るたびに僕を糾弾する声が聞こえて…。
死ねばいいのになんて声が聞こえるなかで点滴打たれるのは怖いんです。
もし消毒薬でも血中に流し込まれたらいくら僕でも死んでしまう。
…頭では分かるんです。
そんなことするはずがないって。
でも…。
俺は皆まで言わせず、バニーを抱きしめた。
「分かった、先生に帰宅許可取ってくるよ。どこであれお前が安心できるのが第一だ。」
バニーの家ならセキュリティもしっかりしてるし、
そもそも自宅に俺と二人きりなら錯乱することもないだろう。
事実上の軟禁には違いないが、バニーにかかるストレスは軽減されるはずだ。
「お前の受けたNEXT能力は必ず解除してやる。もう少し頑張ろうな。」
俺がそう言うとバニーは頼りない力で抱きしめ返してきた。
「虎徹さんだけは…僕の味方でいてくれますか?」
その言葉に俺は泣きそうになった。
こんな能力も衰えた俺が、こんなにも求められているなんて。
「当たり前だろ!世界がお前を攻撃するなら俺はそんな世界ぶっ壊してやる!!」
ヒーロー失格の暴言だってことは分かってる。
でも、たった一人の相棒も護ってやれなくて何がヒーローだ!
…あれ、俺前にも似たようなこと言ったな。
「世界を壊すなんて…貴方って人は…。」
暴言を窘められるかと思ったが、バニーは意外にも嬉しいと呟いた。
「今の僕には貴方だけが味方なんです…。」
その言葉に俺はバニーを強く抱きしめた。
俺だけが…こいつの…。
えもいわれぬ万能感が胸の奥から湧き上がる。
黒く淀んだ喜びに、俺の口が知らず知らず笑みの形に歪む。
「…ううっ…。」
その時バニーが小さく呻いた。
「どうした、大丈夫か?何か聞こえたのか?」
バニーはこめかみのあたりを押さえ何でもないと笑った。
俺の他には誰もいないんだから幻聴は聞こえないはずなのに。
「そんな…。やっぱり…。」
バニーが小さな声で何か言った。
「バニー、もしかして俺が罵る幻聴まで出始めたか?」
こわごわ聞いてみるとバニーはいいえと弱々しく笑った。
「すみません、まだいろいろ混乱してるみたいで。」
「謝るなよ。辛いものは辛いって言え。無理しなくていいから。」
精神操作系って気力体力とも消耗するんだよな。
バニーも帰りたがってるし、家でゆっくり眠らせてやりたい。
誰もいないあのマンションならホットミルク飲ませてベッドに入れば
ここよりはぐっすり眠れるだろう。
「俺、先生に帰宅の許可もらってくるわ。お前はもう少し寝てろよ。」
そう言った俺をバニーは虚脱したような顔でぼんやりとみている。
「バニー、本当に大丈夫か?」
呼びかけるとバニーはハッと身を強張らせ、やがて無理に笑った。
「大丈夫です。まだ薬が抜けきらないみたいで。」
「…そうか。帰るのは朝になってからにするか?」
移動するなら人の少ない深夜の方がバニーの精神的に楽かと思ったけど、
バニーの身体に負担のない方を選ばないと。
そう思ったんだが、バニーは頑なに帰りたがった。
きっと他の誰かが来る場所は怖いんだろう。
「じゃあ早いとこ家に帰ってゆっくり寝ような。」
そう言って俺はバニーの髪を撫でた。
「虎徹さん…。」
「ん?」
どうした、と先を促したがバニーは首を横に振った。
「いえ、何でもありません。」
その表情になにか哀しそうなものを感じたが、
その時、鈍い俺にはそれを知る術はなかった。