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A 心の闇

 

午前3時。

マンションに帰ると少し気持ちが落ち着いた。

ここは何の雑音も聞こえない。

僕はふうっと安堵の息をついた。

「バニー、飯は食えそうか?

帰ってすぐ、虎徹さんは僕を椅子に座らせ心配そうに言った。

そういえば出動で夕飯食べ損ねて昼食の後から何も食べていない。

「おじや…和風リゾットみたいなのだったら作れるけど、食うか?

俺の田舎じゃ風邪で寝込んだ人に食べさせるものだから胃に優しいし、

少しでも食えば元気になるぞ。

虎徹さんは僕の側に膝をつき、優しい目で僕の顔を覗き込むように見て言った。

虎徹さんの気持ちは嬉しいけど、身体は食事を受け付けそうにない。

「なんだか胃が痛くて…ちょっと食べられそうにありません…。」

本当にきりきりと痛む胃を押さえ僕は首を横に振った。

虎徹さんはまた少し心配そうな顔をしたけど、

僕を安心させようとしたんだろう、すぐに笑ってくれた。

「そっか、じゃあゆっくり風呂入って来いよ。ミルク温めておいてやるから。」

考えるのは明日にして今日はもう寝よう。

寝不足じゃ何を考えてもロクな考え浮かばないから。

まずは体力と気力を回復させような。

虎徹さんの提案に僕は頷いた。

たしかにもう何を考える気力も残っていなかった。

シャワーを浴びて、虎徹さんはほんの少しのアルコールを。

僕は虎徹さんが作ってくれた蜂蜜入りのホットミルクを飲んだ。

その優しい味に少しだけ元気が出る。

「…なんだか眠い。」

僕はぐったりとした気持ちで床についた。

「ゆっくり寝ろよ。俺がついてるからな。」

優しい言葉と温かい腕。

僕は隣で横たわった虎徹さんの胸に顔を埋めた。

彼の手がゆっくり僕の背を摩る。

「大丈夫。すぐに能力は解けるさ。大丈夫だよ。」

根拠なんてないんだろうけど、虎徹さんがそう言ってくれると安心する。

早くこの能力から解放されたいのに、

心のどこかでずっとこうしていられたらいいのにとも思う。

…疲れてるんだな、きっと。

虎徹さんの心音を聞きながら僕はすうっと眠りに落ちた。

 

 

翌朝、僕は思ったより気持ち良く起きられた。

薬で眠らされていた僕と違い不眠不休だったから余計に疲れたのだろう。

虎徹さんはすっかり陽が高くなった今もまだベッドで眠っている。

起きるまで寝かせておこうと思いベッドをそっと降りてシャワーを浴びる。

髪を拭きながら僕はリビングの椅子に身を投げ出した。

今日はいい天気だけど、外には出られそうにもない。

今の僕には見えない銃弾飛び交う戦場のようなものだ。

「何か分かったかな…。」

携帯を見た僕は落胆の息をついた。

ロイズさんやアニエスさんからの進捗状況メールは芳しくない報告ばかり。

いったい後何日ここに閉じこもることになるんだろう。

「まるで巣穴に籠る兎そのものだな…。」

情けないけど、解決策が見つかるまで巣篭もりさせてもらおう。

身体を鈍らせるわけにはいかないから筋トレぐらいはしないとな。

それに社会や経済の動向も把握しておきたい。

ネットの閲覧くらいなら幻聴は聞こえないだろうか。

虎徹さんのおかげでぐっすり眠れたおかげだろう。

僕は昨夜よりはいくらか前向きな現状把握ができるようになっていた。

だから、今こそ考えないと。

誰にも言っていないけど、昨日の僕は幻聴以外にもおかしいところがあった。

「昨夜、どうして僕はあんなことを…。」

 

 

昨夜、医師からの帰宅許可はなかなか下りなかった。

最悪の場合、絶え間ない幻の罵声に追い詰められた僕が命を絶つ恐れもあるからと。

「俺が見張ります。自殺とか絶対にそんなことさせませんから!

虎徹さんはそこまで断言して半ば無理やり僕を自宅まで送ってくれた。

一人なら幻聴は聞こえないだろうけど、一人になるのも気が滅入るだろうから。

そう言って彼はそのままここに泊まり込んでくれた。

虎徹さんだって夜通しの騒動で疲れているはずなのに。

僕は自殺したりしないからどうか家に帰って休んでください。

そう言うと虎徹さんは首を横に振った。

「医者に言ったお前の監視は建前。本当は単に俺が心配なんだよ。」

虎徹さんは本当に心配そうに僕の目を見た。

僕の心の脆さを見透かされたようで、少し居た堪れない気持ちになった。

「すみません…。虎徹さんまで巻き込んでしまって…。」

「バーカ、いまさら水臭いこと言うんじゃねえよ。」

俯いた僕の頬に温かい掌が添えられた。

「辛いだろうけど、俺が支えるから。何にも心配しなくていいからな。」

そう言って抱きしめられた時、嬉しくて涙が出た。

その時心のどこかで、黒い自分が囁いた。

 

今だけはワイルドタイガーじゃない。

今だけは鏑木友恵の夫でも鏑木楓の父でもない。

…今だけは、僕の虎徹さん…。

 

そう思ったのに気づいて僕は背筋が凍る思いがした。

虎徹さんはあんなに僕を心配してくれているのになんてことを!

でも黒い僕はまた囁く。

 

だって、独りはもう嫌だろう?

 

 

能力でおかしくなっているとはいえ、最低だと思う。

昨夜の僕はどうしてあんなことを考えたんだろう。

それだけじゃない。

病室で虎徹さんと抱き合っていた時、一度だけ聞こえた幻の彼の声。

他の皆のように僕を嘲り罵る声とは違う、静かで重い声。

<どうして俺はこんなことに…。>

それは彼が僕との関係を後悔している声だった。

友恵さんへの愛。

一時の寂しさから僕と関係を持ったことを悔いる声。

聞こえたのはほんの僅かな時間だったけど、

それは僕に他の罵声全部の総和以上のダメージを与えるに十分だった

「ある意味…罵声の方がマシだ…。」

僕は片手で顔を覆い、思い出しただけで締め付けられる胸の痛みをこらえた。

もしこれが「被害妄想に陥る能力」ではなく「他者の本心が聞こえる能力」だったら…。

その時こそ僕は自害するかもしれない。

こんな可能性考えたくもない。

第一、あんなに僕を労ってくれる虎徹さんに失礼にもほどがある。

でも、ただの被害妄想だというのが僕にはどうにも引っかかる。

例えば、街の人たちの罵詈雑言は本心かもしれない。

それはマーべリック事件のあと実際に酷い誹謗中傷を受けたからそう思う。

流石に医師やナースの「死ねばいいのに」という声は本心だとは思いたくないが。

全くの被害妄想なのか、他者の本音が漏れだしたものなのか。

どういう方向で考えても理屈のどこかで矛盾や綻びがある。

僕は懸命にその答えを探そうとした。

「他者の本音ではない、全くの捏造の声」だという答えを。

虎徹さんから一度だけ聞こえたあの声が彼の本心だと思いたくないから。

でも、それを否定する材料は見つからなかった。

「…怖い…。」

虎徹さんがもし僕との別れを本心では望んでいたら。

そう思うと恐怖がひたひたと僕の心を満たしそうになる。

くそ…!

仮にそうだとしても、こんな能力に屈して別れるのはごめんだ!

僕は何とかこの残酷な仮説を否定する論拠を集められないかと考えた。

そういう論理的思考に身を委ねる方が精神的に楽だった。

仮説は「受けたのは他者の本心が聞こえる能力」。

この仮説と矛盾する事象が欲しい。

本心で僕を憎むはずのない人の心の声が聞ければ一番簡単なんだけど。

その本心のサンプルを取る相手が僕にはほとんどいないことに気がついた。

心がすうっと冷えていくのを感じる。

「…本当に孤独なんだな、僕って。」

両親が健在なら二人の心の声を聞けば被害妄想で罵声が聞こえるのか

本心で愛の言葉が聞けるのか立証できた。

サマンサおばさんも亡くなった今、僕に無償の愛を感じさせてくれる人はない。

虎徹さんはこの件がなければその範疇に入れていただろうが、

幻聴があった今申し訳ないが、判断材料としてはグレーの扱いをせざるを得ない。

虎徹さんがグレーなのに、他の人がそれ以上白に近いわけがない。

世間でどれだけ持て囃されてもひとたび素の自分に戻ればこんなものだ。

はあ…。

へこたれていても何も変わらない。

サンプルを取る方法を別の角度から検討しなくては。

幻聴の信憑性を問うなんて馬鹿げている。

分かっていても、それをやめることはできなかった。

 

このままではあまりにも、他人の心が怖すぎて。

 

その時リビングのドアが開く音がした。

「おはようバニー。ずいぶん早いな。」

虎徹さんのその言葉に僕はつい笑ってしまった。

「もうお昼前ですよ?

「え、マジ?起こしてくれたらよかったのに。」

虎徹さんは腕時計をしてるのに時間を見ていなかったらしい。

今更、正午近い時計の針を見て驚いている。

「うわ、ほんとだ。」

虎徹さんはそう言ってから僕の顔をじっと見た。

「どうしたんですか?

虎徹さんはふうっと困ったような息をついて僕の髪を撫でた。

「また独りでなんか難しいこと考えてたろ。」

え…。

「おおかた聞こえた声が嘘かホントかとか。違うか?

「どうして分かるんですか?

貴方ジェイクですか。

僕は驚いて否定するのも忘れて訊いてしまった。

けれど虎徹さんは僕の問いには答えなかった。

 

いいかバニー、よく聞け。

昨日から聞こえる酷い言葉は全部嘘だ。

いちいち真に受けてたら心が壊れちまうぞ。

せっかく雑音の聞こえない安全エリアに避難してるのに。

誰もお前の事を非難なんてしていないよ。

だから、今は幻聴の事は考えるな。

心配しなくてもロイズさんやアニエス、司法局が動いてくれてる。

ここでお前が悶々と悩むのと、彼らが本当の答えにたどり着くのどっちが早い?

な、考えるだけ無駄だろ?

今日のお前の仕事は飯食って俺と一緒にここでのんびりすることだ。

昼間からグータラするのに抵抗あるならこう考えろ。

「自分の精神を護るのもヒーローの務め。」

分かったな?

 

畳みかける虎徹さんの言葉に僕はもう頷くしかなかった。

「よーし、いい子だ。」

「もう、子供扱いしないでください。」

髪をくしゃくしゃとかき乱す大きな手を掴んで僕が唇を尖らせると

虎徹さんはちょっとぐらいいいだろーと笑った。

「腹減ったな。長丁場になるかもしれねえし、俺買い出し行ってくるわ。」

僕を元気づけようとしてるんだろう。

わざと明るい声で虎徹さんがそう言った。

僕は相変わらず食欲がないけど昨夜聞かれたのと違って、

今食べたくないって言ったら確実にこう言われる。

「食べなきゃもたない、ですよね。」

僕がそう言うと虎徹さんはうんうんと頷きながら笑った。

「そうそう。分かってるなら安心だ。」

 

でも流石に今チャーハンはキツいだろ。

なにか胃に負担のかからない飯と当座の食糧買ってくるわ。

なんか食いたいもんあるか?

あとついでに会社と司法局寄って情報入ってないか聞いてくる。

他に何か外でしてきてほしいことはあるか?

 

とにかく今はいつこの状態が終わるのか知りたいだけだ。

「いえ…。特には。」

「分かった。もう独りで考え込むなよ?落ち着かなけりゃネットで動物動画でも見てな。」

動物動画って…。

虎徹さんは僕のPCを勝手に立ち上げると

いくつかのサイトを検索で探し出しブックマークを付けた。

「これ俺のおススメ。メンタル疲れてる時は効くぞ。」

お勧めサイト?

ああ、前にケインさんがそんなこと言ってたっけ。

そんなに皆見るものなのかな動物動画って。

「じゃ行ってくる。出来るだけ早く帰ってくるからいい子でお留守番してろよ?

また子供扱いして。

僕の声に笑いながら虎徹さんが出かけて行った。

 

じゃあ、いいこのバニーちゃんは大人しくお留守番してますよ。

ここ僕の家だけど。

せっかくだからお勧めサイトを見てみることにした。

飼い主のいたずらに驚いてソファから転げ落ちる犬。

物凄い勢いで猫じゃらしにパンチする子猫。

どれもこれも可愛くて、つい次から次へと見てしまう。

なるほど、確かにこれは良い薬だ。

少しだけ心が和んできた頃、携帯電話が鳴った。

液晶に表示されているのは彼の名前だ。

まだ出かけてそれほど経っていない。

「虎徹さん、何かあったんですか?

あまり電波のよくないところからかけているのか雑音が多い。

「虎徹さん?

<バニー、今会社と司法局でいろいろ聞いた。>

虎徹さんの声は微かに上擦っていた。

<犯人の能力と解除方法が分かったそうだ。>

「本当ですか?よかった…。」

ところが虎徹さんの声は硬い。

<それがな、えー…そのなんだ…。>

外だから言いにくいのか、僕には言いにくいのか。

虎徹さんは何か言おうとしては言葉を濁している。

「何か、厄介な解除条件なんですか?

<ん、ああ…。電話じゃなんだからすぐにそっちに戻る。>

通話を切って僕はふうと息をついた。

あの様子では良い話じゃなさそうだ。

まだ、波乱の山場はこれからということだ。

けどこの幻聴がやむのなら何だってする。

でも…。

もしあれが彼の本心だと分かったらと思うと言いようもない不安を感じる。

そしてそれ以上に…。

どうか、僕の黒い心の裡を知られるようなことにだけはならないでほしい。

僕はPCをシャットダウンし、心を静めて虎徹さんの帰るのをを待った。

 

 

続く