2.繰り返す悪夢
リノリウムの床を鳴らす硬質な足音が静かな廊下に響いた。
ビニールクロスのベンチに長身を丸め、両手で顔を覆うようにして座っていた虎徹は
のろのろと顔を上げ、自分に向かって小さく手を振る彼女に目だけで応えた。
「…まだ終わってないのね、ハンサムの手術…。」
ネイサンは心配げな目で手術室のほうを一瞥し、虎徹の隣に腰を下ろした。
「あの子の怪我、そんなに酷かったのね…。」
「ああ…。相当…危ないらしい…。」
虎徹は苦しそうに顔を歪め、目の前の扉を見つめた。
「バニー…。頼む、頑張ってくれ…。」
絞り出すような虎徹の声に、ネイサンは黙って彼の肩を抱いた。
この高度救急センターに運び込まれた時、バーナビーの意識は既になかった。
爆風で激しく地面に叩きつけられ、辛うじて受け身をとったが
全身…特に頭を強く打ったためだった。
スーツを着ていたうえ能力を発動してなお防げなかった凄まじいダメージ。
能力を発動していなければ即死は免れなかっただろう。
虎徹はバーナビーが負傷した時、その腕に幼い要救助者を抱えていたため
すぐに助けに行けなかった。
「この子を頼む!!」
近くにいた仲間に子供を託し、周りの制止を振り切って燃え上がる炎の中に
駆け戻った虎徹が見たものは…。
焼け崩れた元二階部分の瓦礫の上で倒れ、ピクリとも動かない相棒の姿だった。
「バニー!!」
悲愴な声を上げ虎徹はバーナビーに駆け寄り、ぐったりとしたその身体を抱え起こした。
ロックを解除してバイザーを上げると、白皙の顔は蒼白に変わっていた。
辛うじて息はしているようだが、生命兆候は途絶える寸前のように弱い。
「バニー!しっかりしろ!!」
虎徹は懸命にバーナビーに呼びかけたが、微かに眉を歪めるだけだ。
虎徹はバーナビーを抱え上げ救急隊のもとへ急いだ。
「くそ…!死なせねえ…絶対死なせねえぞ!!」
救急隊員にバーナビーを託すと、焼け出された負傷者の対応に追われていた
救急隊員たちの顔色がさっと変わった。
「大至急、シュテルンビルト高度医療センターに搬送します!!」
バーナビーはすぐにシュテルンビルト最高レベルの医療機関に運ばれたが、
そこをもってしても、今なお命の戦いが続いている。
「最大限尽力するが、念のためご家族に連絡をとまで言われたよ。」
虎徹は掠れた声で呟くように言った。
「ちょっと…それって…。」
ネイサンがまさかと言わんばかりに頭を振る。
「それってさ…。医者が『もう助からない』と思ってる時にしか言わないんだよ…。」
虎徹は過去の苦い経験を思い出し、自分の胸を掻き毟るように掴んだ。
耳に蘇るのは三時間前に聞いたさっきの医師の言葉だったろうか。
それとも五年前に聞いた別の医師の言葉だったのだろうか。
あまりに辛い最後通牒に、虎徹の頭の中で過去と現在が混じり合って区別できない。
「友恵の時も…同じセリフ言われたんだよ…。そして…友恵は…。」
俯いたままの虎徹の言葉じりが震えている。
ネイサンはどう言ったものか逡巡し、一度気持ちを落ち着けるように息をついた。
「タイガー、しっかりなさい。奥様の件とハンサムのことは全く別の話よ。」
「違わない…。同じだ…。同じなんだよあの時と…。」
ネイサンが何とか虎徹を落ち着かせようとするが、虎徹の焦燥は
ますます酷くなっていく。
「なんでだよ…。なんであいつばっかりこんな…。」
虎徹の声はもう嗚咽に変わりはじめていた。
バニー、今日の現場すげえ辛かったはずなんだよ…。
だって、あいつが親を亡くした事件とまるっきり一緒の状況でさ…。
それでも、必死でトラウマと闘いながらも…立派に任務果たしてたんだよ…。
なのに、なのに、なんでこんな…。
なんでバニーばかりこんな酷い目に遭わなきゃいけないんだ!!
もし…このまま…。
パン!と乾いた音が静かな廊下に響いた。
馬鹿!!
ハンサムが死ぬわけないでしょ!!
あの子がそんな軟なタマだと本気で思ってんの!?
あの子が今必死で死神と闘ってるのに、あんたがそんな弱気でどうするの!
あんたたち、バディでしょ!パートナーなんでしょうが!!
だったら、あんたも一緒に闘って、勝つのが筋でしょうが!!
違う?ワイルドタイガー!!
虎徹は呆然とした表情で張られた頬を押さえ、
ネイサンの気迫に圧されたように黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「そうだな…。そうだよな…。ありがとう、ファイアーエンブレム…。」
ネイサンは虎徹をそっと抱きしめ、宥めるようにその背をさすった。
「全く。超楽観主義者の貴方らしくもない。…大丈夫、あの子はきっと大丈夫。」
その時手術中のランプが消灯し、扉が開いた。
「バニー!」
虎徹は弾かれたように立ちあがり、看護師の押すストレッチャーに駆け寄った。
しかし未だ意識はなく、その口元は酸素マスクに覆われている。
「バニー、しっかりしろ!なあ、起きろって!!」
昏々と眠るバーナビーに縋りつこうとする虎徹を年配の看護師が押しとどめた。
「すぐICUに運びますので、今はまだ駄目です。」
「ICU!?あいつの容体は、大丈夫なのか!?助かったのか!?なあ!!」
なおも看護師に食い下がる虎徹を横目に、
他の看護師たちが慌ただしくストレッチャーを押し廊下の奥へ去って行った。
「詳しい説明は、先生のほうに…。」
年配の看護師もそう言うと逃げるように去って行った。
「なあ…どうなんだよ…。大丈夫って…何で言ってくれないんだよ…。」
虎徹は今にも崩れ落ちそうな表情で人気のなくなった廊下を見つめている。
「ちょっと…。」
力なく立ち尽くす虎徹の肩を、ネイサンが遠慮がちにつついた。
促され、ぼんやりとネイサンの指すほうを見るとまだ手術衣のままの医師が
長時間の手術に疲れきった表情で歩み寄ってきた。
「ブルックスさんのお身内の方ですか?」
医師は二人が患者の個人情報を話していい相手かどうかを窺うような目で訊ねた。
虎徹は医師の表情に背を伸ばし、緊張した面持ちになった。
「…まあ、そんなもんです。先生、どうなんですか!あいつの容体は…!!。」
医師は虎徹の顔を束の間見つめると、ああと納得したような表情を一瞬浮かべた。
そして沈痛な面持ちで虎徹の眼を暫し見つめ、気まずそうに床に視線を落とした。
最善は尽くしました。
しかし、未だ予断を許さない状況です。
全身の打撲も酷いものでしたが、それ以上に頭部のダメージが大きすぎた。
普通の人間なら、お気の毒ですが諦めてくださいというレベルの損傷でした。
しかし、ブルックスさんは身体強化に特化したNEXTです。
しかも受傷時には能力を発動していたと聞いています。
率直に言って、私は脳外科の専門ですがNEXTの症例はあまり経験がありません。
ですので、これは予測に過ぎないと初めに申しあげておきます。
意識さえ戻れば、ブルックスさんなら受傷前の身体に戻せる可能性はあります。
しかし…その確率は10%程度かそれ以下だと思っておいてください。
まず自発呼吸が戻ること、そして意識が戻ることが回復の前提です。
今日明日が峠だと思ってください。
彼は今ICUに収容されています。
貴方には立ち入りを許可しておきましょう。
親族ではないようですが、他ならぬ彼のバディなら問題にはならないと思いますので。
家族や恋人が声をかけ続けることで危篤の患者の意識が戻った症例もあります。
可能性は、0ではありませんので…。
医師はそう言うと虎徹とネイサンに一礼し足早に去って行った。
「やだ…ばれてたのね。」
ネイサンはアイパッチをしていない虎徹をちらりと見て、驚いた顔で医師の背を見送った。
虎徹はそんなことはどうでもいいと言わんばかりに辺りを見回した。
「ICU…。行かないと…。傍に…いてやらないと…。」
虎徹はどこかうわ言のような声で言った。
ICUの中で、バーナビーは幾つもの機械に繋がれ眠っていた。
脳波や心電図の計器が不規則な電子音を響かせる。
剥きだしにされた白い腕に点滴の針が刺され、
細い顎には人工呼吸器が取り付けられている。
その光景が晩年の友恵を否応なく思い出させ、虎徹はまた胸が締め付けられた。
「バニー…。」
虎徹はベッドサイドにあった簡素な椅子にすわり、バーナビーの手を握った。
「バニー…。よく頑張ったな…。」
もともと体温の低いバーナビーの手が、いつもより一層冷たく感じられる。
虎徹はバーナビーの左手を自身の両手で包みこむように握りなおした。
「だから言ったでしょ、この子はそんなにヤワじゃないって。」
ネイサンも少し安堵したようにバーナビーを見つめた。
「それにしてもやんなっちゃうわね、この子。眠っててもこんなに綺麗なんだから。」
オンナとしては羨ましいの通りこして腹が立っちゃうわ。
ネイサンの気遣うような軽口に虎徹は力なく笑ってバーナビーの髪を梳いた。
早く、目を覚ましてくれよ。
なんでもいいから、お前の声が聞きてえよ。
前みたいな嫌味言ってもいいからさ。
俺のことまたオジサンって呼んでもいいから。
だから、目を覚ましてくれよ。
なあ、バニー…。
反応のないバーナビーの手を握り締め、虎徹の声が震えた。
今日明日が峠と言った医師の言葉が耳から離れない。
もし峠だというなら、夜を徹してでも傍にいてやりたい。
10%以下でも、傍にいて話かけ続けることでバーナビーを死の淵から
引っ張り出せるなら…。
「俺、お前が目を覚ますまでずっと喋りつづけてやるからな…。」
虎徹はすぐにでも彼が起きて「煩くて眠れない」くらい言ってくれたらと願った。
その時、けたたましいビープ音が鳴り響いた。
それは、3人の手首…PDAから発せられる呼び出し音だった。
“ボンジュール、ヒーロー!事件発生よ!!”